高橋洋一氏と国家戦略特区WGの呆れた規制緩和論

Posted by fukutyonzoku on 15.2017 政治・経済 0 comments 0 trackback

高橋洋一氏がダイヤモンドオンラインの記事で、マスコミはロクに関連資料も読まずに批判していると難癖をつけていたので、彼が紹介していた2年前(2015年6月8日)の「国家戦略特区ワーキンググループ(WG) ヒアリング」の議事要旨昨年(2016年9月16日)の同議事要旨を読んでみた。
読んで驚いた。八田達夫座長(アジア成長研究所長)、原英史(政策工房社長)、本間正義(東京大大学院農学生命科学研究科教授)、八代尚宏(国際基督教大客員教授)の委員たちの議論があまりに支離滅裂だからだ。こんな粗雑な議論で重要政策が決められていたなんて…と驚きを通り越して、背筋が凍る思いがした。

◾️農水省「新分野も含め獣医師は足りている」/文科省「新分野教育も既存大学で対応できている」

獣医師を所管する農水省は、獣医師は十分足りているし、そもそも日本の犬、猫等のペット需要は、人口減の影響もあり、2008年をピークに減少に転じているのだ。そもそも日本のような安易な生産や店頭展示販売や通信販売は英国等のペット先進国では禁止されているのだが、日本では一般消費財と同じように大量生産・大量廃棄(殺処分)しており、国際的な動物愛護団体から批判されている。今後、このブリーダー産業のビジネスを優先した大量生産・大量廃棄のサイクルがますます拡大するとは思えないし、政策的にそうすべきでもないことは明らかだろう。
国際越境感染症や海外の高リスク家畜伝染病等の対応も、既存の組織で対応できていると説明。文科省は、加計学園が提案しているライフサイエンス(生命科学)等の新分野についても、分野ごとに既存大学の研究の現状を説明し、全ての分野で対応できている、と説明している。
それに対し、本間委員や八代委員は「獣医師の狭い世界でギルドを作り、定員管理して競争者を増やさないようにしている」と何の根拠も示さずに決めつけ、農水省や文科省を既得権益を守りたいだけの「抵抗勢力」であるかの如く罵っている。

◾️挙証責任を文科省に転嫁

両省は獣医学部養成系の大学新設は不要だと言っているのだ。
そもそも日本の酪農・畜産農家は廃業が相次いでおり、特にチーズやバター等の乳製品は品薄と価格高騰が社会問題となっているような状態なのだ。家畜用飼料に至ってはほぼ100%を輸入に頼っている。最近では学校給食から牛乳も消えつつある。米国や豪州、フランス等の酪農・畜産大国でさえ、補助金に頼って辛うじて経営が成り立っているような状態だ。それでは、日本は補助金を大きく増やして酪農・畜産産業を支援しようとしているのかといえば、それも心許ない財政事情である。
そのことの是非はともかく、農水省は今後も酪農・畜産農家の減少を見込んでおり、それらをケアする産業獣医の需要が普通に考えれば増えるはずがない。鳥インフルエンザなどの越境感染症研究など新分野への対応は必要かもしれないが、そもそも日本は酪農・畜産大国でもなく、むしろ壊滅状態なのに、それについては何の議論もせず、地域的な獣医師不足や新分野への対応だけを議論しているのだ。何の根拠も示さずに新分野については日本の医療技術を応用すれば国際的に日本がリードできるとか、金儲けの匂いがする?とでも決めつけているようなのだ。本末転倒ではないか。
もし、そうではなく、産業獣医のライフサイエンス分野には可能性があるのだ、だから日本は戦略的に最先端分野の獣医を育てるべきなのだ、だから新学部を作るべきだ、というのなら、そのことの根拠を示す虚証責任は、一義的には加計学園ら申請者側にある。政府内で言えば、それを押している国家戦略特区の民間議員や事務局の内閣府であろう。「岩盤規制」を打破し、特区で具体的な成果を示したい、加計を特区に指定したいと考えているのは彼らの方だからだ。にもかかわらず、高橋氏と同様、挙証責任を文科省に転嫁するようなことまで言っている。まさに、最初から加計の開学ありきとしか思えない議論なのだ。

◾️内閣法違反の疑いが濃厚な加計学園の特区指定

そして、2年前のWG直後の2015年6月30日には、獣医学系養成学部新設を国家戦略特区で認める際クリアすべき条件である「石破4条件」(通称)を含む日本再興戦略2015改訂版が閣議決定された。
言うまでもなく閣議は政府の最高意思決定機関であり、特区を指定する国家戦略特区諮問会議(議長・安倍首相)は閣議の下部機関である。つまり、特区指定はこの「石破4条件」に縛られたことになる。
前記日本再興戦略改訂版の16㌻に該当部分が記載されているので、引用する。

(1)現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化し、
(2)ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになり、
(3)かつ、既存の大学・学部では対応が困難な場合には、
(4)近年の獣医師の需要の動向も考慮しつつ、全国的見地から本年度内に検討を行う。

((1)~(4)の番号は筆者挿入)

つまり、獣医師養成学部新設を特区で指定するなら、既存の大学・学部では対応が困難な新しい分野であり、その新分野の需要が将来伸びる見通しがあることを明らかにする必要がある。かつ、(4)は「全国的見地」から獣医師需要を勘案せよ、と言っている。つまり、特定地域で需要が不足していても、全国的な需要が足りているなら需要偏在は調整できるはずだから新設してはいけないとも読める。
これに対し、文科省や農水省は加計は4条件をクリアできていないと言っている。加計を特区指定したいなら、クリアできていることを示す必要があるが、それができないまま諮問会議が指定してしまった。つまり、加計学園の特区指定は閣議で決定されたルールを逸脱しており、内閣法10条違反の疑いが濃厚だ。
前川喜平・文科省前事務次官は「行政が歪められた」と語ったが、これは何も文科省の言い分が通らなかったことだけを指しているのではない。大学設置の可否を最終決定する大学設置・大学法人審議会(文科相の諮問機関)での審査という法律で定められた手続きを踏まず、さらには政府の最高意思決定機関である閣議で正式決定されたルールまで逸脱して加計学園が特区指定されたことを指しているのだとみられる。つまり、特区指定についても大学設置についても規定のデュープロセスがなぜか無視されているのだ。なぜそんな暴挙がまかり通ったかといえば、そこには「総理のご意向」、あるいは周囲の過剰な「忖度」が働いていたのだろう、と。

◾️獣医師が無制限に増えても国民に害はない?

また、委員たちは「獣医師需給の調整は農水省が担当する国家試験でやればよい。大学の段階で定員調整をするのはおかしい」とまで言っている。法学部がそうだと。正気か?
獣医師養成系は獣医師になるための6年間の専門教育なのだ。教員の人件費程度しかお金がかからない法学・政治学、経済・経営、文学・歴史・哲学等の社会科学系、自然科学でも数学、理論物理等とは違い、獣医師養成は動物を飼育したり医療機器等の設備も必要なため、お金がかかるのだ。私立大の学費をみても、医学部ほどではないが、それでも年間200万円以上、6年間で1200万~1400万円程度となっている。国立大はもちろん私立大にも国からは助成金が交付されており、地元自治体からも出資や補助、中には土地の無償譲渡まで受けているケースもある(今回の加計も)。
「無制限に獣医師が増えたとしても、何ら国民にとって害はない」(本間委員)とも言っているが、国や地方自治体が税金を入れて教育しているのに、獣医師になれず専門性を生かせる就職もできない学生を大量に生み出すことは、税金とマンパワーの浪費にほかならず、国民・納税者にとっては害悪である。だからこそ医学部や教育学部等の専門性が高く、殆どの修了生が国家試験を受ける分野は入学段階で需給調整しているのである。むしろ法学部が例外なのだ。
前述の通り法学部はさほどお金がかからない上に、司法試験を受けなくても公務員など法律知識が必要な就職先は少なくないし、仮に就職に直接結びつかなくても社会人として基礎的な法律・政治知識はあるに越したことはない。しかし、獣医学の知識はどうか。WG委員が言うほど社会人一般に広く必要な汎用性のある知識とは到底考えられない。
さらには、法科大学院(ロースクール)を廃止する私立大が相次いでいるように、出口がハッキリ見通せない教育機関には結局、学生が集まらなくなり、運営が危うくなる。倒産すれば、学生にも自治体にも被害が及ぶ。事実、加計学園の大学を巨額の補助金を出して誘致した今回の愛媛県今治市や、2004年に同学園千葉科学大を誘致した千葉県銚子市は、財政破綻寸前とも言われ、地元では大きな問題となっている。
また、仮に大学が破綻した場合、在学生に「そんな大学を選んだ君たちの自己責任だ」と放り出せるのか。教育に企業と同じ自由競争原理を持ち込むことが、そもそも間違っていないか。

◾️教育は規制緩和に馴染むのか

文科省による大学設置の許認可制は「役人が既得権を守ったり天下り先を確保するための岩盤規制なのだから、そんなものはやめて届出制にして原則自由化した方がいい」というのなら、国公立大は民営化し、私学助成金も全廃しないと理屈が通らない。なぜなら、かつての郵政3事業のように中途半端に公共事業体や公的補助を残せば、「民営圧迫」との批判が必ず起こるからだ。つまりは大学のビジネス化だ。特区諮問会議の民間議員らはそうしろと言っているのに等しい。
日本のGDP比の教育予算はただでさえOECD最低の水準で、特に高等教育への配分が少ない。完全にビジネス化されている塾や予備校、習い事などを含めて、家計の過重な教育費負担が少子化の大きな要因ともなっている。厳しい財政事情の中で、政府はなるべく金を使わず、民間資金を上手に取り入れて高等教育や研究開発を活性化させようとの狙いはわからないでもない。しかし、効果的にそれをやるには「選択と集中」が必要だ。最もポテンシャルのある研究機関に研究資金を重点配分することだ。その意味では、京都産業大が今回提案していた京都大や大阪府立大との連携によるiPS細胞の獣医学部分野への応用研究の方がライフサイエンスで世界をリードできる可能性が高いのではないか。国家戦略特区制度は、そもそも地方再生事業でも過疎対策事業でもなく、あくまで国際競争力の強化やそれに資する国際的なビジネス拠点形成が目的なのだ。
また、教育のビジネス化をこれ以上進めれば、教育は益々「金で買うもの」になる。今でさえ日本の大学偏差値と学生の親の所得水準は見事にパラレルだ。大学間の競争が激化すれば、特区民間議員らが言うように、本当に「安くて質の高い教育」が生まれるだろうか。「良いものは高い値段がつく」。それが市場原理だ。市場原理の強い米国の私大を見れば一目瞭然だ。名門で偏差値が高いほど学費も高い。日本の塾や予備校も同じだ。教育への公費負担削減と市場原理導入は、むしろ米国のように普通の家庭では払えないほど大学の学費が高騰する結果となる可能性が高い。
そうなれば、教育機会格差の拡大と所得格差の固定化が益々進むことになるし、学生が卒業後も返済に苦しんでいる貸与奨学金返済負担の問題もさらに深刻化することになる。高等教育への国民のアクセスが悪化し、特区制度の狙いとは逆に日本の国際競争力はますます劣化していくのではないか。
WG委員や高橋洋一氏は、それでもいいというのだろうか。教育を政治利権や目先の経済活性化の道具にしてはならない。
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インディ500「日本人の優勝は不愉快」米記者ツイートは人種差別ではない

Posted by fukutyonzoku on 02.2017 国際 0 comments 0 trackback


世界3大自動車レースの一つ、米「インディ500」で佐藤琢磨選手が日本人として初めて優勝した。この快挙に対し、コロラド州の『デンバー・ポスト』紙のベテランスポーツライター、テリー・フライ記者が「日本人の優勝はとても不愉快だ」とツイートし、「人種差別だ」と批判が殺到。同紙は即刻フライ記者を解雇し、謝罪した。日本のネット空間でも「人種差別」批判が沸騰。同時に、デンバーポスト紙による即座の謝罪とフライ記者解雇という素早い対応に対し、「英断だ」と評価する声が上がっている。

しかし、筆者はフライ記者のツイートが日本人差別とは全く思わない。

◾️当日は沖縄戦に従軍した亡父を墓参

フライ記者のツイートは、次の内容だった(既に削除済み)。

Nothing specifically personal, but I am very uncomfortable with a Japanese driver winning the Indianapolis 500 during Memorial Day weekend.



(特に個人的な関係はないが、メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)の週末に日本人ドライバーがインディ500で優勝したことは、とても不愉快だ)=筆者訳

日本語のブログ記事の中には、フライ記者が「『ジャップがインディ500で優勝しやがった!』と罵倒した」などと悪意に満ちた歪曲をしている者もいるが、原文を読めば分かる通り、フライ記者は“Jap”という差別表現は使っておらず、「罵倒」というニュアンスとも明らかに違う。
同記者は短文の中に敢えて「メモリアルデーの週末に…」とメモリアルデーに言及している。インディ500は米国人なら誰もが知る米国最大級のスポーツイベント。「メモリアルデーの週末」に決勝が行われることは毎年恒例でもあるので、単にインディ500を説明するための修飾語や説明としてなら不要だ。
つまり、彼は単にインディ500に日本人が勝ったことが不愉快だというより、「戦死者を悼むメモリアルデーに連なる米国の特別なレースに日本人が勝ったこと」が不愉快だ、とのニュアンスを伝えたかったなのだと分かる。

彼は、騒動後に投稿した佐藤選手らに対する謝罪文の中で、決勝レース当日の日曜日(5月28日)に、米空軍パイロットだった亡父を地元デンバーのフォート・ローガン国立墓地に見舞い、エモーショナルになっていたと弁明している。彼の父は沖縄戦にも従軍し、戦友を亡くしているとも。第二次世界大戦で戦死したアスリートの物語を取材をしたこともあるという。

◾️メモリアルデーとインディ500

米国のメモリアルデー(5月最終月曜日)は元々、南北戦争で亡くなった北米兵士を讃える催しだったが、時代を追って次第に対象が拡大。今では米国の全戦没兵を讃える行事になっている。メモリアルデーに合わせ、戦争に限らず亡くなった家族を悼んだり、過去1年間に亡くなった信者を悼む特別なミサを開くキリスト教会もあるという。
また親族が年に1度集まったり、家族でピクニックを楽しむ連休ともなっている。つまり、このメモリアルデーの3連休は、日本の「お盆休み」とよく似ているのだ。親族が集まり、先祖代々の墓を参り、終戦記念日(8月15日)とも重なっているため、戦没者を慰霊する。日本の場合は、この連休中の最大のスポーツイベントは夏の甲子園だろう。甲子園でも高校球児は15日の正午には戦没者に黙祷を捧げる。日本人にとって夏の甲子園大会と戦争の記憶は、切っても切り離せない関係だ。だからこそ民族的なスポーツイベントなのだ。

米国のメモリアルデーでは、前日の日曜日に決勝レースが行われるビックイベントがインディ500である。
五大湖の南に位置するインディアナ州の州都・インディアナポリスのモーター・スピードウェイのオーバルトラック1周2.5マイル(約4km)を200周、走行距離500マイル(804km)の先着を競う「世界最速の周回レース」(最高速度380km)。3億円近い優勝賞金を含め賞金総額15億円以上。練習や予選、関連イベントを含めれば毎年2週間~1カ月間も開催されているが、決勝には約40万人もの観客を集める。NFLのスーパーボールやMLBのワールドシリーズにも匹敵する米最大級のスポーツイベントだ。地上波テレビで全米生中継されている。
第1回開催は、大衆車の先駆け「T型フォード」が大量生産を開始した3年後の1911年で、今年で101回目。世界3大自動車レースと言われるル・マン24時間レース(1923年~)、F1モナコGP(29年~)の中でも最も伝統がある。当時の日本は大正時代。実験的な「国産車モドキ」を除けば、本格的な国産化はまだ遠い夢という時代だ。
モータースポーツの「本家」は米国であり、特にトランプ支持層とも重なる中西部の白人保守層にとって、インディ500がいかに特別なレースであるかは、米在住の日本人作家、冷泉彰彦さんがニューズウィークの連載コラムに詳しく書いている。

◾️「差別」と「素朴な民族感情」の違い

ベテランスポーツライターのフライ記者がインディ500に無関心であるはずはない。しかも決勝レース当日はメモリアルデーの前日で、彼自身もかつて日本軍と戦った亡父を墓参したまさにその日だった。父やその戦友、太平洋戦争の犠牲者に思いを馳せていたところに、佐藤優勝の情報が飛び込んできたわけだ。
“very uncomfortable”(とても不愉快)は、デンバーポスト紙の記事として書いたのなら間違いなく不適切だろう。しかし、これはそもそも個人的な呟きなのだ。個人的なバックグラウンドやメモリアルデーのタイミングを考えれば、多少感情的になっても不思議ではない。「米国の自動車産業を追い詰めた日本人が、米国最大の自動車レースの祭典で優勝した」との感情も重なったかもしれない。
もちろん、実際にはインディアナ州には日系自動車メーカー3社が進出し、雇用にも貢献しているし、佐藤は長年多くの米国人らとチームを組んでインディ500に参戦しているのではあるが、デンバーのフライ記者はその辺りの事情は知らなかった可能性もある。

日本人に照らして考えれば、モンゴル人横綱だらけの大相撲は正直愉快でない日本人は多い。19年ぶりの日本出身横綱の誕生(稀勢ノ里)にこれほど日本中が沸いたのも、その感情の裏返しだろう。
しかし、それは「モンゴル人に対する差別感情」だろうか。殆どの日本人はモンゴル人に何の反感もないし、むしろ似た顔、比較的近い言語、中国人嫌いで親日国、国技が相撲という共通の伝統文化…といったモンゴル人の国民性に親近感を覚える日本人は少なくない。殊にモンゴル人力士たちに対しては、言葉も文化も違う日本に10代で単身渡り、日本人の若者でさえ敬遠する封建的な相撲部屋に入門、なおかつ角界の頂点に登り詰め、日本の伝統文化を担ってくれている若者たちに対し、感謝と尊敬の念を持って拍手を送る日本人も多い。しかし、これとそれとは違うのだ。「ナショナリズム」とも違う。「素朴な民族感情」とでもしか言いようのないものだ。

◾️「終戦記念日の奉納相撲」で米国人力士が優勝したら?

今は世界ランキング1位のマレーがいるのでそんな議論は誰もしなくなったが、英国人テニスプレーヤーが全英オープン(ウィンブルドン大会)で全く勝ち上がれなかった頃にも、同様の国民感情が英国で燻っていた。門戸開放によって国内勢が淘汰される「ウィンブルドン現象」なる言葉まで出来たほどだ。これは、どの民族、国民にもある否定し難い素朴な感情だろう。
仮に日本の終戦記念日の伝統行事として奉納大相撲が靖国神社であったとしよう。もしそこでちょんまげ姿の米国人力士が優勝したら、どうだろうか。「不愉快」どころの騒ぎではなくなるはずだ。これは「反米感情」や「人種差別」とは次元が違う問題だ。フライ記者のやや感情的な反応もそれと大差はないだろう。少なくとも悪意に満ちた確信的な反日感情の吐露という感じは全くしない。

◾️行き過ぎたポリティカル・コレクトネス

もし佐藤選手が米国生まれの日系アメリカ人で、フライ記者が同じツイートを発信していたなら、米国内での問題はもっと複雑になっていたかもしれない。文化や国家の違いよりも「人種差別」の趣きが強まるからだ。しかし、実際には佐藤は日本生まれの日本人である。「人種」的嫌悪ではなく、第二次世界大戦の記憶という文化的歴史的な背景を伴った拭いきれない本音、と解するべきだ。それを「人種差別」と断じて袋叩きにするのは、明らかにポリティカル・コレクトネスの行き過ぎだと思う。むしろ米国内の人種問題に対する過剰反応を恐れ、即刻解雇したデンバー・ポストの経営陣に、計算高さや非情さを感じてしまう。フライ記者は表現の不適切さを認めて佐藤選手に謝罪し、反省を示している。何も解雇までしなくても、と同情を禁じ得ない。

「24時間テレビ」という偽善チャリティー番組で儲ける日テレは番組収支を公表せよ

Posted by fukutyonzoku on 04.2016 メディア 0 comments 0 trackback


今夏の日本テレビ系『24時間テレビ 愛は地球を救う』の裏番組としてNHKーEテレが8月28日19:00~19:30に生放送した「バリバラ」の「笑いは地球を救う」がネットで話題騒然となった。

◼︎NHKが「24時間テレビ」を徹底批判

「笑いは地球を救う」は、「24時間テレビ」を徹底的にパロディーにして笑い飛ばし、障害者を「感動」の具とする番組内容に対し、障害者自身を含む出演者たちが口々に異を唱えた。NHKとは思えない攻撃的かつ野心的な番組は、ツイッターで多くつぶやかれた言葉を集計する「Yahoo!リアルタイム検索」で20時台、「バリバラ」が3位、「感動ポルノ」が4位など、24時間テレビを上回る順位を記録した。
番組のキーワード「感動ポルノ」は、自身も骨形成不全症を患いながら豪州でコメディアンとジャーナリストとして活躍したステラ・ヤングさん(1982~2014年)が唱えた造語だ。番組ではヤングさんの講演ビデオも流されたが、障害者を健常者が感動するための「モノ」扱いするような行為を指す概念とのこと。この場合の「ポルノ」は裸とは無関係で、「みせ者」「晒し者」といった意味合いで使われている。
また、番組では、「感動ポルノ」的な障害者の番組について、当の障害者の90%が「嫌い」と答えた、とのアンケート結果も紹介されていた。
放送後も続いた討論の動画も番組ホームページで公表されている。


◼︎「チャリティー」なのに高額ギャラ

「24時間テレビ」は、この「感動ポルノ」の問題のみならず、出演タレントへの高額ギャラの問題も週刊誌等で指摘されながら、うやむやのままだ。24時間マラソンランナーのギャラは1000万円とも2000万円とも言われている。パーソナリティーや出演歌手、タレントにもそれぞれ数百万円レベルの出演料が支払われている、と週刊誌などが何度も報じている。
この高額ギャラが本当なら、国際的な常識では「チャリティー番組」としてはあり得ない。「チャリティー」を称するなら、ボランティア出演が当たり前で、彼らに良心があればギャラは受け取れないはずだ。
米国の「レイバーデイ・テレソン」、フランスの「テレソン」といった海外のチャリティー番組でも、大物歌手だろうがタレントだろうが、すべてノーギャラだ。1984年、アフリカの飢餓救済を目的に英国のアーティストたちが「Band Aid」プロジェクトを立ち上げ、翌年米国でも「USA For Africa」に大物アーティストたちが続々と結集。マイケル・ジャクソンが曲を書いた「We Are The World」は世界的な大ヒット曲となったことは誰でも知っているが、この収益は全額アフリカへの食料援助に寄付されている。マイケルはもちろん参加アーティストたちは誰一人、1㌦も受け取っていない。「チャリティー」である以上、出演者はノーギャラというのが世界の常識なのだ。

◼︎「チャリティー」を謳うバラエティー番組

「有名タレントは視聴率と寄付金を集める力がある。ギャラを払ってもお釣りがくるなら、いいじゃないか」「ギャラは寄付金から出しているわけではないから問題はない」と反論する業界関係者も少なくない。しかし、それならそれで、世間が誤解しないように、その考え方や全体収支をきちんと公表するのが、全国的な「チャリティーイベント」を挙行するテレビ局側の最低限の義務であるが、公表されていない。
番組を放送する日テレ系列の全国31局でつくる「公益社団法人24時間テレビチャリティー委員会」のホームページでは、「皆様からお預かりした寄付金は、経費を一切差し引くことなく、全額、支援活動に活用させていただきます」と説明している。笑ってしまうほど簡単な毎年度の事業計画書と決算報告書も一応掲載されているが、これはあくまで「チャリティー募金」に関わる部分だけの会計報告だ。
実はこの番組は、通常の民放番組と同じように企業のCMスポンサーがおり、当然スポンサー収入がテレビ局側に入っている。その収入は福祉団体に寄付されているわけではなく、通常の番組と同様にテレビ局の収益となっている。その中から出演タレントへのギャラを含む番組制作経費が支払われているらしいのだ。
つまり、集まった寄付金は公益事業として別団体の公益社団法人(24時間テレビチャリティー委員会)が処理しているが、番組自体は通常のバラエティー番組として企業からスポンサー収入を得て制作・放送するという二重構造になっているのだ。「チャリティーを看板にし、実際に募金活動を行うバラエティー番組」というのが実態なのだ。

◼︎日テレの儲けは18億円?

この「バラエティー番組」部分の収支は一切公表されていないが、写真週刊誌『FLASH』の3年前の報道によれば、「事情を知るプロデューサー」の話として、番組の総制作費は4億2000万円、CM収入合計が22億2750万円だという。寄付金総額は毎年10億円前後だから、その2倍以上ものスポンサー収入があることになる。この「総制作費」が番組制作経費の全額を指すのだとすれば、22億2750万円-4億2000万円=18億750万円がテレビ局側の営業利益ということになる。
つまり、日テレとその系列局、制作会社、芸能事務所や出演タレントらは、障害者の「感動」ストーリーを売り物に一般大衆視聴者から寄付を集めながら、その実、自分たちは放送ビジネスとしてちゃっかり儲けているのだ。
寄付をした人たちの一体どれだけの人がこの番組の二重構造を理解した上で寄付しているだろうか。おそらく皆無だろう。「チャリティー」の看板を掲げている以上、全体像を包み隠さず公表しない限り、障害者を食い物にする「偽善チャリティー番組」という誹りは永久に免れないと思う。