先日、テレビ朝日の深夜番組「マツコ&有吉の怒り新党」をみていたら、元日テレ女子アナの夏目三久が、競馬の話に絡めて「ダントツのビリ」と何度も繰り返していた。筆者は思わず「だから日テレをクビになるんだよ」と突っ込んでしまった(もちろん夏目がフリーになった原因は別だが…)。
「ダントツ」は辞書にも書いてあるように「断然トップ」の略語。「断トツ」とも書く。従って「ダントツのビリ」は「断然トップのビリ」という矛盾した表現となる。「ダントツの負け」等も同様に誤用。このほか「ダントツの一位」は「トップ」と「一位」という同じ意味の言葉を繰り返すことになるので、「富士山に登山する」などと同様の重複表現となり、これも誤用とされている。
「断突」「断凸」(「断然突出」などの略語?)という漢字を間違ってあてているケースも少なくないようだ。「ブッチギリ」等と同意語だという誤解である。
実は新聞社内でも、記者原稿や外部ライターからの寄稿の中にも「断トツの一位」などの誤用が断トツで多く(…でもないか)、必ず校閲部から修正が入る。各新聞社が社内用に作っている用語辞典(共同通信や朝日新聞などは市販もし ている)にも「間違いやすい表現」などの用例として載っている。
「暇人だなあ」と己に呆れながら、このことをtweetしようと思い、念のために「ダントツ」の語源をWEBで確認してみたところ、面白い説がいくつかヒットしたので、ご紹介する。
マラソン選手「戸塚 団」?(引用開始)
「ダントツ」という言葉の語源
2011年09月06日07:36 お得情報コピペ
昭和初期に活躍したマラソン選手、団戸塚(本名は戸塚団 通称 団戸塚)が出場したほぼ全てのレースにおいて2位の選手を突き放して1位でゴールをした事から、次点に大きな差を付ける事を団 戸塚の当時の愛称、ダントツから取った、ダントツ状態と言う言葉が流行しその後ダントツと言う言葉だけが定着した。断然トップの略と言う説もあるが、これは誤りである。
(引用終了)
http://d5020103.blog55.fc2.com/blog-entry-1022.html全く同じ記事が2ちゃんねるにも載っている。
http://2chnull.info/r/mj/1313512849/801-900(898:焼き鳥名無しさん:11/08/20(土) 22:20:32.44 ID:MuCVCbtL)
上のブログ記事は「お得情報コピペ」とあり、ブログのタイトルも「コピペいんざわーるど」。時系列から判断しても、出典は下の2ちゃんねるの記事だろう。
なるほど、目から鱗だ。確かに「トップ」を「トツ」と略すのは少し変な気がしないでもないが、明治期のカタカナ表記ならありえることだろうと漠然と考えていたが、本当はそういうことだったのか!……と最初は思った。
面白いことに、全く同じ内容の記事がなんと川崎・堀之内のソープランドが運営しているらしいブログにも載っていた。
http://kawasakisoapane.blog104.fc2.com/?mode=m&no=981しかも、その記事の末尾にはこうある。
「参考文献:民明書房刊
…スイマセン。嘘です。」
ちなみに、聞き慣れない「民明書房」を調べてみると、漫画『魁!!男塾』に登場する架空の出版社名で、尤もらしい作り話の出典として頻繁に登場する。ファンの間では有名らしいのだ。
http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/%CC%B1%CC%C0%BD%F1%CB%BCつまり、「参考文献 : 民明書房刊……スイマセン、嘘です」というのは、これは作り話ですよ、という意味である。
コピペされたと思われる全く同じ内容の3本の記事の中で、時系列的にはこの記事が一番後なのだが、おそらく最初の2ちゃんねるの記事は、ねつ造だと白状した堀之内ソープのブログと同一筆者なのであろう。
冷静に考えれば下の名前が「団」一文字というは変だし、そもそも日系人や国際的に活躍した日本人でもない限り、ニックネームが「名ー姓」の順番になるのも不自然だ(硫黄島で戦死した「バロン西」〈西竹一男爵〉などのケースはあるにせよ…)。迂闊にも信じかけた己の不明を恥じている次第。ネット検索すると、このコピペがたくさんヒットするので、作り話と気付かずに騙されている人が多いかもしれない。罪つくりな冗談である。
石原慎太郎氏の記事が初見ほかの説としては、読売新聞が2007年4月9日付「編集後記」で、「ダントツ」が石原慎太郎・東京都知事が1963年に書いたのが最初だという説が紹介されている。
http://m.blogs.yahoo.co.jp/sasuraino777/46088525.html(引用開始)
「ダントツ」という言葉を活字にして世に広めたのは石原慎太郎氏らしい。月刊「文芸春秋」1963年1月号に寄せたヨットレース体験記に、「スタートからダントツ(断然トップ)で出た」とある◆最も古い用例を採録することを編集方針に掲げる「日本国語大辞典」(小学館)には、この一文が挙げられている…」
(引用終了)
おそらく石原氏の造語ではなく、当時一部で使われ始めていた新語を石原氏が使ったものが、現在残っている書物の中では一番古いということなのだろう。一部の国語辞典に載っているのだとすれば、50年前の石原氏の記事が初見だということの信憑性は高いだろう。
いずれにしても言葉は生き物。もともとは誤用だったのに、その誤用が普及し一般化したために辞書でも認められ、誤用でなくなった言葉や表現は枚挙に暇がない。「ダントツのビリ」も近い将来、そうなっているかもしれない。
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もう10年以上前になるが、筆者は硫黄島を取材で訪れたことがある。
硫黄島は小笠原諸島の南端近くに位置し、行政区は東京都小笠原村。小笠原村の中心地である父島からは南へ約300㌔、東京からは南へ約1200㌔で、グアム・サイパン島とのちょうど中間辺りに位置する。
硫黄島は太平洋戦争末期の1944年に陸海軍部隊の進出に伴い、盛時1000人以上いた島民は小笠原や内地に租界させられ、以後、島に住む一般島民はいない。戦後は全島が海上自衛隊・航空自衛隊の航空基地となっており、一般の立ち入りは原則禁止されている。
住人は駐在の自衛隊員と関係工事業者らだけで、民間の交通アクセスは当然なく、隆起活動が激しいため港も築港できない。
筆者は海上保安庁の小型輸送機で硫黄島に入った。
当時も硫黄島南側の海岸には放棄された揚陸艦の残骸が残っていた。本土へ帰還した遺骨は約8千柱で、1万3千柱余りの遺骨はいまだ硫黄島内地下に埋もれたまま。また無数の不発弾も残されており、不発弾爆発の危険性から自衛隊員でも立ち入りが禁じられている地域が存在する。有毒な硫黄ガスへの対処とともに、不発弾の回収が困難なことが、遺骨収集の妨げとなっている。
また、大戦中に破壊された大砲や戦車の残骸、飛行場跡、地下壕跡、トーチカ跡等の戦争の痕跡もいまだに数多く残っている。筆者は日米双方の戦没者慰霊碑での参拝はもちろん、自衛隊航空基地司令官の案内でそれらを一通り見学し、いくつかの地下壕跡にも入った。
ちなみに、硫黄島では今尚戦死した日米双方の幽霊が出るという噂がある。以下は工事関係業者として硫黄島に半年滞在したという方の記事だが、これは嘘ではないと思う。
http://syarecowa.moo.jp/sinnrei-iihanashi/14/77.html戦後50年の節目を翌年に控えた平成6年(1994年)、天皇陛下が初めて硫黄島を訪れ、慰霊祭が開かれて以来、幽霊はピタッと出なくなったという話は、島を案内してくれた当時の基地司令官から筆者が聞いた話と一致する。それも冗談めかして言うのではなく、大真面目な顔で、実に抑制の効いた声で厳かに話すのだ。もっとも、この工事関係業者の方によれば、その後もまだ成仏しきれない英霊が出ているようである。
前回書いたクリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」では、米国も実は戦費調達に苦労していたことが描かれているが、米国が追い込まれていたのは財政だけではない。硫黄島とその後の沖縄の地上戦で米軍は日本兵の奮戦により予想を大きく上回る損害を出した。米国は硫黄島と沖縄で日本兵の強靭さを知り、恐れるようになっていたのだ。日本本土にはまだ300万の兵力が残されていたとみて、上陸して地上戦を行えば米兵にはさらに100万人以上の犠牲を強いられると予測していた。そんなに犠牲を出せば米国内で反戦世論が一気に高まり、政治的に戦争は継続困難となる。だから米国はなりふり構わぬ市街地への無差別空襲、さらには広島、長崎への原爆投下という最終手段に訴え、戦争終結を急いだのだ。
逆に考えれば、日本がもしサイパン、もしくは硫黄島での玉砕を最後に降伏していれば、壮絶な犠牲を出した沖縄戦や本土への無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下はなかった。その時点でもはや日本に勝機は残されていないことは誰の目にも明らかだったのだから、その時点で降伏の英断ができなかった戦争責任はやはり無視し得ないであろう。
余談だか、米国留学経験やカナダ大使館駐在経験もある栗林中将や西男爵は陸軍きっての国際派。彼らが最初から玉砕が目に見えていた硫黄島に送り込まれたのは、陸軍内に根強かった国際派への偏見といじめの結果だったと思わざるを得ない。
硫黄島で戦死した日米2万7000の御霊と全ての戦争犠牲者のご冥福を改めて祈る。