NHK朝ドラ「らんまん」の主人公「槙野万太郎」のモデルである「日本植物学の父」牧野富太郎博士。ドラマとは違って史実の方は、妻の壽衛(ドラマでは「寿恵子」)に一目惚れし、暮らし始めたのは富太郎25歳、壽衛14歳の時。14歳は当時としてはそれほど若い年齢でもなかったのかもしれないが、今なら犯罪だ。壽衛は翌年長女を出産したのを皮切りに、富太郎との間に13人の子供をもうけた。長く東大助手、講師という不安定な身分だったのに。
しかも国元の高知には酒蔵や雑貨商を営む大店の商家「岸屋」(同「峰屋」)の若女将となっていた2~3歳年下の妻・猶(ドラマでは元々はいとこ同士で姉となった「綾」として描かれている)がいて、生活・研究資金を送らせた。猶は富太郎のいとこで、富太郎を育てた先代の祖母・浪子(同「タキ」)が富太郎の許嫁としたため、この結婚は形だけだった可能性が高い。であるからこそ、岸屋の当主であった富太郎の送金要求を断れなかったのだろう。
ドラマで描かれたような明治政府の酒税増税の影響だけでなく、富太郎への送金の重荷も手伝って岸屋は傾き、富太郎31歳の時に経営破綻した。破産整理のために富太郎は猶と番頭の井上和之助(同「竹雄」)を結婚させ、後始末をさせた(ドラマでは竹雄の思いが成就した風に美しく描かれている)。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E https://www.oricon.co.jp/special/62805/ これが史実である。明治の男はよく言えば豪快だが、言い方を変えれば破茶滅茶であった。特に富裕な商家に育った後継のお坊ちゃんはその特徴が顕著だ。牧野博士はそうではなかったようだが、妾を何人も持つのが男の甲斐性とされた時代である。牧野博士の植物学の業績はともかく、NHKは人間ドラマとして史実のまま描くことはさすがに憚られたらしい。
◾️
史実を美化したフィクションの罪深さ 史実を美化したフィクションやドラマは社会的に罪深く、個人的には楽しめない。「事実は小説より奇なり」である。 史実を捻じ曲げて明らかな嘘をついて歴史ドラマを造るぐらいなら、最初から中途半端に実在の人物を利用せず、完全フィクションで物語を創作すれば?と言いたくもなる。
ただし、文献が少ない中世以前の物語の事実が不明な部分を創作で埋めるだけなら「新解釈」として楽しめる。最近のNHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」や「どうする家康」が面白いのもそこ。ドラマといえども重要な史実は外していないし、主人公を安易に美化もしていない。だから歴史的教養のある大人も楽しめる。
ところが、文献が豊富な近代以降の人物をモデルにしながら、意図的に事実を捻じ曲げて人物を美化し、「フィクション」に逃げて虚像を描くのはいただけない。「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」も同じかもしれないが、あれはほぼ創作だと誰もが知っているのでまだ罪は浅い。ましてや、そうやって全国的にはさほど有名でもない歴史的人物の虚像をNHKが人気ドラマででっち上げ、出身地が「地元の偉人」として観光利用するのに手を貸すなど破茶滅茶だったはもってのほかだ。
古典小説の傑作「源氏物語」も、後世の人々はほぼ史実として読むから面白いのであって、大方フィクションだと思えば読む気が失せるのではないかと思う。
スポンサーサイト
NHK「英雄たちの選択~ドキュメント明暦の大火 幕府を変えた江戸の危機」 を再放送でみた。
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/8XXY1QNL53/ 江戸城下の6割が焼失したとされる明暦の大火(1657年)。当時の江戸の人口は推計70万人弱。これに対し犠牲者は、記録によって幅があるものの10万人以上との推計もある。
江戸城内にも飛び火し、本丸、二の丸、三の丸が全焼。国内最大の天守も焼け落ちた。焼け落ちた天守は、20年前の1637(寛永14)年、3代将軍家光が修築した「寛永の天守」と呼ばれていたもので、『江戸図屏風』などによれば、屋根には金鯱をのせた5層6階。「建地割図」によれば、天守の高さは45m、天守台の高さは14m、地上からの高さは58mと国内最大最高の天守だった。現在のビルに直せば20階建ての高層建築に匹敵。豊臣秀吉の大坂城天守は高さ30m、国宝・姫路城天守が31mなので、その3倍ほどの規模・容積だった。
https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0250/ 当時まだ17歳と幼かった4代将軍家綱の後見役だった会津藩主・保科正之は、江戸城下の復興が先だとして、いったんは天守再建を命じられた加賀藩が石垣の天守台を作った段階で再建延期を決定。結局、その後も再建されず、天守台だけが残った。
https://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/h15/pdf/2-7.pdf (現在も皇居東御苑に残る天守台)
◾️
天守再建は経済刺激策? これについて、
津田塾大の萱野稔人教授 (哲学)は番組の中で、天守を再建すべきだったと語っていた。「経済復興というか経済刺激策になり、結果的にみんなが栄えれば権力も強化され、幕府財政も潤う」「そこまで近代的な経済的な考え方をしていたか別にしても」と。しかし、それはどうか。
天守は民生インフラではなく、利用するのは幕府だけなので、民への経済波及効果は皆無だろう。今で言えば「バブルの塔」東京都庁舎を建てるようなもので、恩恵を受けるのは受注業者だけ。すでに戦乱の世は終わり、軍事的な意味もなくなっていた。経済波及効果が殆どない“無駄な箱モノ公共事業”の典型になったのではないかと思う。
江戸の普請は幕府に指名された藩の持ち出しだったから負担するのは加賀藩で、幕府の財政負担はなかったかもしれない。実際の工事を受注した大工や木材業者には加賀藩から代金が入るだろうが、城下の復興事業との間で大工や木材の取り合いとなり、大工工賃や木材価格のインフレが加速し、城下の民生再建の足を引っ張ることになったはずだ。実際、大工工賃は大火後に1.7倍になったと記録されている。保科が不要不急の天守再建を延期したのは正しい選択だったように思う。
◾️
もし再建されていれば… しかし、城下復興の目処が立った後も再建されなかったのは、幕府財政の悪化で天守再建どころではなくなったからだろうか。あるいは江戸はそれまでも何度も大火に見舞われていたため、再建しても再び大火で燃え落ちる可能性があると尻込みし、再建されなかったのかもしれない。すでに大平の世となり、天守は軍事的にも無用の長物となっていたこともあっただろう。
いずれにしても、もし再建されて現在も残っていれば、皇居のシンボル的な観光資源になっていたはずだ。それを考えると少し残念な気もする。
昨年放送されたNHKスペシャル「新・幕末史ーグローバルヒストリー」を2時間にまとめた総集編「新・幕末史 完全版」が1月3日夜、BSプレミアムで放送されたのを録画でみました。幕末の動乱には欧米各国が深く関わっていたことはある程度は知っていたが、個別の動きについては初めて聞く話も多く、見応えがありました。
個人的な解釈を交えて放送内容を概説します。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2022125264SA000/ 番組は、幕末史を海外の新史料を中心にグローバルな視点で見直そうとする試み。ポルトガル、スペイン、英、蘭が深く関わっていた戦国時代もそうだが、これまでの日本史は世界の軍事的影響力や経済・貿易関係が軽視され、世界史と切り離されてきた面が強い。最近の日本史学会は、海外で公開された史料に基づきグローバルな視点で日本史を捉え直そうとしているようだ。番組では、最近公開された新史料や新解釈をコンパクトにまとめている。
◾️
日本を舞台に覇権を競った列強各国 幕末には対馬事件、下関戦争、改税約書、幕長戦争(長州征討)、大政奉還、鳥羽・伏見の戦い、奥羽越列藩同盟、函館戦争ーーと全ての内乱に欧米列強が深く関与し、日本を舞台に覇権争いを繰り広げていた。結果的に日本がどの列強の植民地にもならなかったのは、奇跡的な幸運でしかなかったと思えてくる。
クリミア戦争(1853~1856年)で英仏トルコ・サルデーニャ連合軍に敗れた帝政ロシアは極東進出を狙い、中国進出の拠点として日本に狙いを定め、61年に日本の通商拠点だった対馬を軍事占拠(対馬事件)した。
一方、アヘン戦争(1840~42年)に勝利していた大英帝国は、極東の自国権益を守るため、横浜にも艦隊を常駐させ、東シナ海の制海権を握っていた。幕府の同意を得てロシアに圧力をかけ、ひとまず対馬からロシア海軍を追い出したが、これを機に幕府への干渉を強めていく。
英国で公開された当時の機密文書によると、幕府は1858年の日米修好通商条約により横浜・長崎・新潟・兵庫・函館を開港。しかし、幕府は攘夷派に押されて再び港を閉じようと、列強各国と交渉に乗り出した。これに不満を募らせた各国は、長州藩が馬関海峡(現関門海峡)を通過する外国商船を砲撃したことを口実に「下関戦争」(1863年/64年)を仕掛け、圧倒的軍事力で長州藩を屈服させた。列強の強さを知った長州藩は、「金門の変」で幕府による征討を受けたこともあり、以来、攘夷を捨てて英国の協力を得て倒幕路線に転換した。
◾️
英陸海軍は対日全面戦争を計画 一方で英国の陸海軍は64年、対日全面戦争計画を立案。まず瀬戸内海を海上封鎖し、大阪湾から大阪城を砲撃して無力化。大阪湾から陸上部隊が上陸し、京都御所を制圧。次に江戸湾の幕府砲台を海軍艦隊が撃破した後、1万2000人の陸軍部隊が江戸に上陸。江戸城内を焼き払った上で長期離射程の大砲で砲撃し、落城させるーーという具体的な作戦計画だった。しかし、幕府の急速な軍備増強もあって全面戦争はコストに見合わないと判断を修正し、薩長支援による新政府設立へと対日戦略を転換する。
64年と66年の二次にわたった長州征討では、第一次は長州側が藩主の謝罪や3家老の切腹などの処分で許された。その後、高杉晋作らが藩の実権を握り、66年3月の薩長同盟を経て英国と薩摩の協力を得て軍備を増強。同年5月の幕府による10万石削封などの再処分を機に第二次長征が始まり、今度は長州軍が幕府軍を破った。これを機に幕府の権威は失墜する。
◾️
米南北戦争終結で余剰武器が大量流入 当時はちょうど65年4月に米国の南北戦争が終結。不要となったエンフィールド銃約5万挺などの余剰兵器が武器市場を通じて大量に日本に流れ込み、幕軍・佐幕派と倒幕派双方の軍備増強を助けた。特に薩長には元込め式ミニエー銃やカラベイン銃などの最新兵器ももたらされた。この時、日本に盛んに武器売買を行っていたのが英国系ジャーディン・マセソン商会や、その長崎代理店だったトーマス・グラバー商会。薩長間の武器密輸に協力したのが坂本龍馬の亀山社中だ。
◾️
英マセソン商会は幕府の武器代金を薩摩に融資 マセソン商会は幕府からの武器注文も受けたが、幕府から得た武器代金4000㌦を元手に3000㌦を薩摩藩に融資し、薩摩の武器購入→長州への密輸を助けた事実が、当時の英国の外交機密文書に残っている。恐らく幕府には旧式の武器しか売らなかったのではないか。
清国大使も務めた外交官である英国駐日特命全権公使のハリー・パークスは、自国商船に流れ弾が当たる可能性があるとして幕府に馬関海峡での戦闘自粛を要請。英国商船に被害を受けたことを口実に英国軍が全面参戦する恐れもあったため、幕府は海軍力で長州を上回っていたにもかかわらず馬関海峡から下関へ砲撃することができなくなった。これも幕軍敗戦の一因だった。
英国は既に幕府に見切りをつけ、薩長を中心とする新政府樹立と英国の独占貿易の絵を描いていた。結局、英国の思惑は「独占貿易」を除けば実現したことになるが。
◾️
幕府も蘭、仏と提携して軍事増強 一方、幕府は江戸時代を通じて長崎・出島などを通じて長く国交関係があったオランダを通じてまずは軍の近代化を進め、世界情勢についてもオランダから情報を得ていた。下関戦争で長州藩の砲台を全滅させたアームストロング砲の性能を上回る大砲クルップ砲を搭載した最新鑑「開陽丸」も幕府発注によりオランダで造艦されたほか、英国に対抗したいフランスとも提携し、急速に軍備を強化していた。これに対し大英帝国も日本との全面戦争計画を修正し、薩長支援に戦略転換した。つまり、幕府の軍備増強が戦争抑止力して働き、結果として植民地化を阻止したともいえよう。
また列強各国は66年、英国公使パークスが主導して幕府に関税引き下げを要求。パークスの任務は、大英帝国が支配する自由貿易圏に日本を組み込むことだった。幕府は長州戦争の賠償金額の減免と引き換えにパークスの要求を受け入れ、関税を引き下げた。幕府に対する圧力を高め、水面下で反幕府勢力を支援する英国の動きを幕府も掴んでいた。幕府は英国に対抗するため極東覇権争奪戦で出遅れていたフランスに接近。双方の利害が一致し、フランスは幕府の軍事支援に本腰を入れる。本国から軍事顧問団を招いて幕軍の近代化を急いだほか、造船技術者も招き、横須賀に造船所を造るなど幕府の富国強兵策を後押しした。
◾️
英国は幕府の仏武器購入を金融界への圧力で阻止 ところが、幕府はフランスから武器を大量購入しようとした際、英国から圧力がかかった。武器購入資金の調達先がロンドンの銀行団の融資だったためで、パークスは本国と連携して金融界に圧力をかけ、この融資をストップさせた。このため、この時のフランスからの武器輸入は頓挫した。国際金融を握っている点でも大英帝国の力は絶大だったのだろう。
◾️
ロシアがサハリンを占領 さらには、英国の圧力でいったん対馬から撤退したロシアは日本との国境が確定していなかった樺太(サハリン)を全面占領したため、幕府は蝦夷(北海道)の防衛を強化する必要にも迫られていた。
恐らく徳川慶喜は、欧州列強の覇権争いに巻き込まれて反幕勢力と内戦状態となれば、列強が日本を植民地化する格好の口実を与えてしまうと感じていただろう。しかし、もはや幕府に反幕勢力を抑え込む力はなく、反幕勢力に妥協しつつ挙国一致内閣のようなものを新たにつくる必要があると考えたはずだ。67年に政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行ったのもそのためであろう。しかし、この時慶喜は、薩長などを取り込みつつも新政府の中心には引き続き自身や幕臣が座ることを想定してはずだ。
慶喜の思惑も虚しく、68年1月の鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の火蓋は切って落とされた。
◾️
幕軍にも勝算があった戊辰戦争 鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍もフランスが開発した「四斤山砲」という最新の大砲を投入。鳥羽・伏見では幕軍は京都御所への進軍では武力攻撃の意図がないことを示すため銃に弾を込めずに進軍。新政府軍に不意を突かれていったん撤退したが、大阪城で体制を整え、大阪湾から開陽丸がクルップ砲で砲撃して反撃に転じるはずだったが、大将である慶喜が開陽丸を使って江戸に逃げ帰ってしまった。もし、慶喜が先頭に立って戦えば、戦局はどうなっていたかは分からない。
幕府と修好条約を最初に結んだ米国も最新軍艦を提供する契約を幕府と締結していた。つまり、新政府は英国の支援を受けているが、幕府側にもオランダ、フランス、米国がついていた。本当のところ戊辰戦争はどっちに転ぶかは分からなかったのだ。
◾️
仏米の幕府支援を止めたパークス英公使 鳥羽・伏見の戦いの翌月、パークスはフランス、米国、オランダ、プロイセン、イタリアの駐日大使を集め、日本が本格的な内戦状態に入ったことで、自国民保護を優先するために共同で国際法の「局外中立」の立場を取るよう呼び掛けた。3日間の激論の末、6カ国は共同で局外中立を宣言。この結果、フランスは幕府から軍事顧問団を引き揚げ、米国は鉄板の厚さが最大14㌢という最強の「不沈艦」ストーン・ウォール号の売却契約を凍結した。
もともと慶喜は尊王思想が強い水戸藩の出身で、朝敵して戦うことを嫌ったというのが従来説だが、内戦となって日本が列強の植民地となることを避けたかったとも言われる。いずれにしても、この局外中立宣言でフランスや米国の支援を断たれたことが、もしかしたら慶喜が江戸城無血開城、つまり無条件降伏を決断した決定打になった可能性もある。
◾️
奥羽越列藩同盟を支援したプロイセン しかし、武器商人は局外中立の対象外だった。東北・新潟の31藩が名を連ねた奥羽越列藩同盟を裏で軍事的に支援したのは「鉄血宰相」ビスマルク率いるプロイセン(現ドイツ)だった。新興国プロイセンもまた極東進出で出遅れ、覇権獲得のチャンスを伺っていた。幕府軍からフランスや米国が撤退したため、その間隙を縫って武器供給ビジネスを始めたのがプロイセン。プロイセンは新潟を第5の貿易港として開港させ、武器商人を通じて東北諸藩へ武器を運び入れていた。1人の武器商人の記録だけでも約5000丁のライフルに相当する売買契約が確認されているという。
戊辰戦争最大の激戦となった北越戦争では、司馬遼太郎の小説「峠」でも描かれた長岡藩の老中、河井継之助が毎分200発の連射が可能な機関銃「ガトリング砲」をプロイセンの武器商人シュネルから入手。これも南北戦争で初めて実戦使用された最新兵器だった。
会津戦争では、同じく南北戦争で初登場した最新式スペンサー銃(元込め連射式ライフル)が会津藩に渡っていた。大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかが演じた「会津のジャンヌダルク」山本八重が使用したのもスペンサー銃。会津藩の砲術師範だった兄・覚馬から八重に送られたものだ。ただし、スペンサー銃の銃弾は当時の日本で作れず、実戦ではすぐに弾切れとなり、あまり役に立たなかったようだ。
◾️
プロイセンの蝦夷植民地計画 ビスマルクが日本に代理公使として派遣したのがマックス・フォン・ブラント。ブラントは2度にわたり蝦夷を調査し、会津藩や庄内藩などの東北雄藩が分割統治している実態や、気候や作物が北ドイツと似ている点から「150万人のドイツ人を受け入れ可能。蝦夷こそが我が国の植民地に相応しい」との見解を67年に機密外交文書で本国に送っていた。プロイセンは日本が内戦で疲弊している今こそ植民地化の好機だと気付き、蝦夷を足がかりに極東での勢力拡大を狙っていたのだ。ロシアの南下を警戒する英国の同意も得られるとの読みもあった。
プロイセンの代理行使ブラントの通訳だったハインリッヒ・シュネルは列藩同盟に接近し、列藩同盟の軍事参謀まで務めた。ブラントの指示で動いていたことは間違いない。シュネルの弟、エドワルド・シュネルが兄の指示に従って武器商人として動き、ガトリング砲を入手して長岡藩に売り渡すなど、列藩同盟に大量の武器を売り渡した。シュネルは列藩同盟への武器購入代金の融資と引き換えに、各藩の蝦夷の管理地を担保に取った。結局、新潟港は新政府軍に海上封鎖され、武器輸入もストップ。函館戦争を最後まで戦った榎本武揚は「蝦夷共和国」構想を描いていたが、実はプロイセンも蝦夷を植民地化する計画を描いていたのだ。列藩同盟が新政府軍に敗れたことで、結局プロイセンの狙い通りに事は進まなかったが。
◾️
局外中立を撤廃、米軍艦を新政府に引き渡したパースク 幕府海軍副総裁だった榎本武揚は、土方歳三ら幕府軍の残党を率いて総司令官として最後まで新政府軍と函館戦争を戦った。英国公使パークスが恐れたのはプロイセンよりロシア。戊辰戦争のどさくさ紛れにサハリン(樺太)を占領したロシアは、サハリンにロシア国民を送り込み、ロシア化に着手していた。パークスはロシアと榎本が手を組むことを恐れ、函館戦争の早期集結のため一計を案じる。
パークスは函館戦争開戦翌月の69年1月、再び5カ国の大使・公使を集めて会議を開催。「既に幕府軍の大将(慶喜)は降参しているのだから、日本の内戦(戊辰戦争)は終わった。合法的な日本政府は新政府であり、榎本ら旧幕臣の残党は一部の反乱軍に過ぎない」と主張して、自らの提案で実施していた局外中立の撤廃を要求。奥羽列藩同盟を支援していたプロイセンなどが抵抗したが、局外中立は翌月撤廃された。
パークスの狙いは、幕府の発注で米国が建造し、局外中立宣言のため横浜港に停泊したまま引き渡しが凍結されていた最新艦「ストーンウォール号」を新政府に引き渡すことだった。旗艦「開陽丸」など主力艦船が江刺沖で暴風雨に遭い座礁する不運もあったとはいえ、パークスの狙い通りストーンウォール号(新政府によって「甲鉄」と名前を変えた)を得た新政府海軍は榎本艦隊を殲滅した。
◾️
「薩長でなく英国に負けた」と語った榎本 戦後、当時の米国領事が残した外交記録によれば、榎本は「我々は薩長に負けたのではない。イギリスに負けたのだ」と語ったという。
Merry Xmas!
クリスマス蘊蓄を少し。クリスマスは何の日? イエス・キリストの誕生日だと思ってませんか?
「クリスマス」(英語はChristmas)を直訳すれば「キリストのミサ(礼拝)」ですが、正式には「キリスト降誕祭」。キリストの誕生を祝うという趣旨はどなたもご承知の通りですが、実はイエスの誕生日は聖書にも他の文献にも残っておらず、不明なんですね。聖書では馬小屋あるいは洞窟で生まれたとされているので、真冬ではないだろうと推測されています。イエス生誕の地とされる現在のパレスチナのベツレヘムは温暖な地ですが、12~1月の夜の気温は10度を下回ります。
◾️
なぜ12月25日? なぜサンタクロース? では、なぜキリストの誕生を祝う日が12月25日となったか? 古代から北欧などの異教徒の間で伝わっていた冬至の祝祭やサンタクロース祭などと結びついていったようです。
サンタクロースはフィンランドのイメージが強いが、モデルは4世紀頃の東ローマ帝国・小アジアのミラ(現在のトルコ)の司教で、無実の罪に問われた死刑囚を救った聖人ニコラウス(ニコラオスとも)という説が有力。ニコラウスは、三人の娘を身売りしなければならない貧しい家族を知り、真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れた。その家の暖炉には靴下が下げられ、金貨はその靴下の中に入った。その金貨のお陰で娘たちの身売りは避けられた」という逸話が残っているとか。トナカイのソリや煙突から入るというおとぎ話はフィンランドで加えられたようです。
オランダでは14世紀頃から聖ニコラウスの命日である12月6日を「シンタクラース祭」として祝う習慣があり、アメリカには17世紀にオランダ移民を通じて伝わり「サンタクロース」の語源になったそうだ。サンタクロース祭は国や時代、各宗派が採用する暦によって12月6日や19日、25日、1月7日とバラバラ。欧州でのキリスト教布教拡大の過程で古代北欧の冬至祭、サンタクロース祭、キリスト降誕祭が融合していったと考えられています。
◾️
なぜXマス? 「イブ」は前夜祭? なお、クリスマスを「Xマス」とも表記するのは、ギリシャ語で「キリスト」を表すΧριστός(クリストス)の頭文字「X」を取ったのが由来。
「クリスマス・イブ」のことを「クリスマス前夜(祭)」と訳すのは誤り。イブ(Eve)は英語のEvening、つまり夕方や夜の意ですが、ユダヤ暦や教会暦では日没で日付が変わるので、クリスマス・イブはクリスマス当日の夜なんですね。
◾️
クリスマスにチキン食べる風習は日本だけ? なお、クリスマスにチキンを食べる風習は世界でも日本だけらしく、このことを知った外国人は結構びっくりします。なぜならチキンは「特別な日のご馳走」からは最もかけ離れた日常食だからとのこと。ましてやケンタッキー・フライド・チキン(KFC)なんてファストフードじゃないか、と。米国は感謝祭(11月下旬)と同じターキー(七面鳥)や牛肉、欧州では国によってガチョウや牛肉や魚介が主流だそうです。それ以前に、日本にはキリスト教徒が人口の1~2%しかいないのに、クリスマスやバレンタインデー、ハロウィンをお祝いすること自体に驚く外国人も少なくないようです(日本の場合、全て商業ベースで発生した形だけのパーティー文化に過ぎませんが)。
日本でクリスマスにチキンを食べる風習は1970年代の日本KFCによる販促キャンペーンから、という説が有力ですが、それ以前から既にあったという人も。日本には江戸時代から鶏肉食文化(軍鶏鍋など)はあり、明治期以降も馴染みがあり、七面鳥の代替として比較的手に入りやすかった事情もあったようです。
◾️
欧米のクリスマスは日本のお正月 なお、キリスト教圏では仕事や学校はクリスマスの少し前から休暇に入り、クリスマスには恋人同士ではなく家族で過ごし、教会のミサに参加するというのがスタンダードです。仕事や金融市場も年明け2日にはもうスタート。クリスマス休暇は日本で言えばお正月のようなものですね。家族で過ごし、普段は忘れている寺社に初詣に行くような……w
ジーンズはアメリカ文化の象徴だが、実はアメリカが発祥ではないそうだ。
先日のNHK「BS世界のドキュメンタリー『ジーンズが語るアメリカ史』」でも紹介されていたが、生地である「デニム」はフランスのニームで作られた織物が発祥とされる。
https://www.nhk.jp/p/wdoc/ts/88Z7X45XZY/episode/te/D98LRVLYZ1/ フランス語の「serge de Nîmes(セルジュ・ドゥ・ニーム=ニームの綾織り」が語源とされ、ニームの地のアンドレ一族による綾織りの布「de Nîmes(「ニームの」「ニーム産」)」が短縮されて「denim」と呼ばれるようになったそうだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ジーンズ
◾️
「ジーンズ」の語源は「ジェノバ人」 デニム生地は18世紀にイタリア・ジェノバを中心に海外へ輸出されていた。ジェノバ人たちが穿いていたワークパンツをアメリカ人がOveralls(オーバーオールズ)やJeans(ジーンズ=ジェノイーズ=ジェノバ人の)と呼び始めたのが、アメリカにおけるジーンズの歴史の始まりらしい。
https://pants.jp/blogs/journal/2150#:~:text= 実は生地デニムはフランス,がジーンズの始まりです%E3%80%82&text=仕立て屋を営んでいたジェイコブ・デイビスに依頼%E3%80%82
◾️
「ダンガリー」の由来はインドのダングリ ところが、そのデニム生地は、インドがポルトガルの植民地だった17世紀初頭のダングリ(現ムンバイの一地域=「ドングリ」とも)で既に織られ、欧州にも輸出されていたという。「ダンガリーシャツ」として有名な英語の「dungaree(ダンガリー)」は、デニムとほぼ同義だが、この地名が由来だ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ダンガリー
◾️
「シャンブレー」は北仏由来 さらには、似た生地として「シャンブレー」生地もある。カンブリーという北フランスの街で作られた「カンブリック」と呼ばれる織物が起源、という説が有力。既に16世紀半ばにはリネンで織られいたという。
https://www.zutto.co.jp/blog/category/season/347#:~:text= シャンブレーとは、経糸と,シャンブレー生地の特徴です%E3%80%82
◾️
インディゴは北インド藍 なお、ジーンズやデニム、ダンガリーなどに共通する藍色の「インディゴ染め」は、古代エジプト時代からあったとの説もあるという。藍は古くから世界中で栽培され、染料として利用されていた。「インディゴ」は元々はインド北部原産のインド藍のことだが、アフリカの一部にも藍染めの文化が古くからあり、彼らが奴隷としてアメリカに渡ってインディゴの栽培や染色の技術を伝えたとの説もある。なお20世紀に入って以降は天然インディゴは廃れ、化学合成のインディゴ染料に置き換わっている。
◾️
リベット打ちはアメリカ発祥 アメリカでは、キャンバス生地のポケット両端を銅リベットで補強して改良した作業パンツでリーバイスが特許を取得。その後、デニム生地が主流となり、西部開拓時代のカウボーイから金鉱夫、労働者に至るまで丈夫な作業着として人気化。後にファッションアイテムとして普及したことも歴史的事実だが、かといってアメリカの発明品というわけではなかったのだ。
https://www.fashion-press.net/news/28537