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鳥越「淫行疑惑」報道のレベルの低さ

Posted by fukutyonzoku on 31.2016 政治・経済 0 comments 0 trackback


都知事選の告示後に週刊誌が鳥越俊太郎候補の「女子大生淫行」疑惑を競って書きたてた。便乗して騒いでいる人たちが少なからずいるが、論理を超えた感情的な左派嫌いか、もてない男の「妬み」にしか見えず、はっきり言ってみっともない。

最初に断っておくが、私は都知事選で鳥越氏を支持しているわけではないので、ことさら彼を擁護するつもりはない。日本の現職総理大臣の女性スキャンダルを日本の主要メディアで初めて書き、宇野宗佑首相を辞任に追い込んだのは、当時鳥越氏が編集長を務めていた「サンデー毎日」だ。彼はこの記事によって名を上げ、TVキャスターに転身した。その意味では、まさに「因果応報」だとさえ思っている。
今回の選挙に関しても、はっきり言って野党連合という枠組み自体を支持していないし、政策も明確でない。発言は左に寄り過ぎているし、そもそも支離滅裂だ。年齢や健康面の不安も大きい。

それでもこの週刊誌の「淫行」疑惑は選挙期間中に出すべき報道ではないし、こんな卑劣な選挙妨害によって有権者の投票行動が左右されるべきでもないと思っている。

『週刊文春』と『週刊新潮』の報道内容を総合すれば、相手の女子大生は、鳥越氏からメール等で「好きだ」としつこく言い寄られ、2人で食事をし、鳥越のマンションにまでついて行っている。マンションの部屋ではキスを許している。
彼女には当時、今は夫になっている若い彼氏もいたという。「信じていたのに、裏切られた」「軽率だった」というなら、その時点で連絡を断てたはずだ。
ところが、そういうことがあった後に、彼女は河口湖の鳥越の別荘に1人でついて行ったという。彼女は「寝室は別々のつもりだった」と釈明しているので、当然「お泊り」前提で出掛けているわけだ。仕事で男性上司とたまたま2人で出張させられ、同じホテルに宿泊する羽目になったのとは訳が違う。結局、「一緒に寝よう」という鳥越の誘いにも同意し、寝室を供にしている。そこまで自分の意思で行動を共にしながら、「淫らな行為を強要された」「強引に裸にされた」と事後に騒ぎ立てるのは、社会通念上、通用する言い分ではない。男女のことを何も知らない小学生でもあるまいし。

もし、鳥越の「不倫」(性交にまで至らなかったのなら「不倫」というのも微妙だが)が道徳的に問題だというなら、その女子大生も鳥越に妻子があることを知りながらデートを重ね、別荘にまでついていっているのだから、完全に同罪だ。告発する資格はない。また、彼女は大学で鳥越の教え子というわけでもなかったようだから、優位な立場を利用したセクハラでもない。18歳未満でもなく、さらには性交もしていないというのだから、二重の意味で(「淫行条例」でいうところの法律的な意味での)「淫行」ではない。

「妻子がありながら40歳も年下の若い女に手を出そうとしたのが倫理的に問題だ」というなら、それは個々人の倫理観の問題に過ぎず、そういう「お盛んな」老人が好きか嫌いか、知事として相応しいかどうか、という主観的な問題でしかない。個人的には「モテ男」に対するつまらない嫉妬でしかないと思う。古今東西、年の差婚や老いらくの恋なんて珍しくもなんともない。唯一の被害者は、こんな形で選挙を妨害された鳥越本人と、それ以上に夫や父親の女性問題を世間に晒された彼の妻子だろう。
そう考えたら、この「女子大生淫行」疑惑は、メディアが公益上報道すべき社会的な「問題」なのかどうか、さっぱり訳がわからなくなる。

◾️政治家の評価と私生活の問題を切り離す欧米の政治文化

欧米では、政治家の不倫問題は「私生活上の問題」として政治家の資質や評価とは切り離して考えるのが常識だ。特にフランスなどは、良し悪しはともかく、ジスカール=デスタン、ミッテラン、シラク、サルコジ、オランドの歴代大統領にはみな愛人がいた。最近のサルコジやオランドのケースはかつてよりメディアも報道するようになったが、それは主に公金支出や安全保障上の問題に発展した場合であり、単に倫理観や道徳の問題として国民的バッシングが起こったり、辞任した大統領は一人もいない。
それは、ナポレオンの時代から「英雄色を好む」ことが、文化的に許容されているからではないか。実際の社会は乱れ切っているのに、なぜか「公人」にだけは厳格で偏狭な倫理観を(週刊誌メディアが)振りかざす日本と違って、男女関係に積極的なことや人生を楽しむ姿勢は基本的に大切なことだというコモンセンスが共有されているからだろう。公職にある物にもプライベートはあり、仕事に支障がない限り詮索すべきではないという「大人」の分別だ。

ただし、イタリアのベルルスコーニ元首相の場合は、乱行パーティー疑惑などの性的スキャンダルのみならず、数々の差別的失言や汚職疑惑まで露見し、未成年の少女買春で起訴までされた。そのため支持率は急落し、経済不振への責任問題とも相まって辞任に追い込まれた。これはあまりに品行がグロテスクだったという例外的ケースだ。

米国でもクリントン大統領のホワイトハウス研修生との「不適切な関係」が問題になったが、辞任まではしていない。マリリン・モンローとの不倫関係が現在では明らかになっているJ.F.ケネディーもクリントンと同様、歴代大統領の中で高い評価を受けている。このことは、米国でも政治リーダーの評価と女性問題は基本的に切り離されて考えられているということだろう。
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参院選で野党はなぜ敗れたか

Posted by fukutyonzoku on 10.2016 政治・経済 0 comments 0 trackback


参院選は、ほぼメディアの事前予想通り、与党が改選過半数を制し、改憲4党が非改選を含め3分の2を超えた。

今回は安倍批判票の受け皿がなかったというのが率直な印象だ。「野党共闘」は両刃の剣だった。宮城、新潟など奏功した選挙区もあったが、地元議員ら実動部隊が互いに不信感を持ったままま最後まで一体化できなかった選挙区が多かったのではないか。比例区では野党は全般に票を落としたようだ。特に民主党は左傾化により中道保守層の票を大幅に減らした。
改憲については、そもそも公明、維新は9条改正には否定的だから、リベラル陣営が危機感を煽ったような即9条改正とはならないだろう。このことは選挙前からわかっていたことだ。リベラル勢力の扇動は空回りしたのではないか。
むしろ、内向きになる米国、膨張主義を強める中国、核とミサイル開発で瀬戸際外交を強める北朝鮮、日本人を例外扱いしないテロの頻発…日本を取り巻く安保環境は間違いなく厳しくなっているのに、護憲派が訴えたのは「憲法を守れ」という相も変わらぬお題目だけで、安保環境の変化に対する現実的な政策対応はほとんど何も示していない。その代表格である社共に民主党が共闘したとあっては、ますます政権を任せられないと思った人が多かったのではないか。

アベノミクスについても、必ずしも多くの支持を集めているわけではないが、それでは野党に現実的な対案があるかと言えば、そうは見えなかった。若者支援とか子育て支援の充実など耳障りのいい個別政策は並んでいるが、肝心の財源論が抜け落ちている。全政党が消費税増税は延期だし、歳出削減にはどこも触れていない。つまり財源は国債増発しかない。説得力ある成長戦略が示せていたとも思えない。これでは政策とは言えない。相変わらずポピュリズム政党しかないということだ。

G7は本当に「世界経済の新たな危機」で一致したのか?

Posted by fukutyonzoku on 23.2016 政治・経済 0 comments 0 trackback
先日の参院選を前にした党首討論会で、安倍首相は消費税増税再延期の根拠として伊勢志摩首脳宣言を引き、「(新たな危機に協調して対処することで)一致したんですから」と相変わらず詭弁を弄し続けている。

しかし、同首脳宣言では「前回の会合以降、世界経済の見通しに対する下方リスクが高まってきている」と言っているに過ぎない。

「新たに生じつつあるリスク」とも言っているが、それを指しているとおぼしき具体的な記述は以下の通り。

「近年、世界的な貿易のパフォーマ ンスは期待外れの状況にある。弱い需要及び未対応の構造的な問題が、実際の及び潜在的な成長に負荷を与えている主な要因である。非経済的な由来による潜在的なショックが存在する。英国の EU からの離脱は、より大きな国際貿易及び投資に向けた傾向並びにこれらが生み出す雇用を反転することになり、成長に向けた更なる深刻なリスクである。悪化した地政学的な紛争、テ ロ及び難民の動きは、世界の経済環境を複雑にする要因である」

これだけである。リーマン・ショックの「リ」の字もサブプライム危機の「サ」の字も出てこない。これのどこが「危機前夜との認識で一致した」というのか。経済の先行きといものは、常に何がしかのリスクがある。現在の考えうるリスクを羅列しているだけである。もし危機が起こったらG7が政策をフル動員し協調して対処しましょう、というのは一般論に過ぎない建て前を再確認しているだけのことである。

さらにこの宣言では、「債務を持続可能な道筋に乗せていくための取組を継続」することの重要性や、労働市場改革等の「構造政策」の重要性を繰り返し強調している。金融政策や財政政策だけに頼ることを戒めているのだ。
「債務を持続可能な道筋に乗せていくための取組」がG7でも世界でも最も遅れている日本が、消費税増税を再延期して財政出動を呼びかけている場合ではないのだ。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000160267.pdf

消費税軽減税率と法人税率引き下げの本当の意味

Posted by fukutyonzoku on 27.2015 政治・経済 0 comments 0 trackback
消費税率の10%への引き上げ時に、外食を除く食料品を8%に据え置く軽減税率の導入が自・公協議で決着した。

日本の消費税率は20%を超える欧米の付加価値税率より低いことは周知の事実だが、実は税率が低い割には税収ウエイトは比較的高い。
以下は、主要国の税収全体に占める消費税(付加価値税)の税収ウエイト(カッコ内は基準税率)。

フランス:39.5% (20%)
ドイツ :46.7% (19%)
イタリア:37.1% (22%)
イギリス:41.3% (20%)
スウェーデン:38.4%(25%)
日本  :30.7% (8%)

この原因は、日本は他の基幹税収(所得税、法人税)が過去の減税や景気悪化の影響で税収が落ちていること、加えて日本は食料品等の軽減税率が未導入であることもある。日本は食料品の消費税率が8%のままなら、主要国の中では低いとも言えない。



例えば、各国の食料品税率は英国、カナダ、オーストラリア、メキシコはゼロ、スイス2.5%、台湾、ポルトガル、チェコは5%、フランス5.5%、オランダ、ベルギーが6%、ドイツ、スペイン、ポーランド、シンガポール、タイが7%ーーとなっている。

軽減税率を導入するなら、8%への据え置きでいいのか、という議論が殆ど聞かれなかったことが不思議だ。

◾️法人税率引き下げの狙いは外形標準課税導入の隠れ蓑

法人税率の引き下げと同時に赤字企業にも課税される外形標準課税が導入される。実は、大企業の殆どは複雑怪奇な租税特別措置(租特)を駆使して節税して、法人税を殆ど支払っていない。例えば日本最大の企業であるトヨタ自動車は法人税を過去5年間、1円も払っていない。
つまり、大企業にとっては法人税率が上がっても下がってもほとんど影響はない。財政当局にとっては、法人税率を下げても税収はそれほど減らない(逆に言えば、仮に法人税率を上げても税収はそれほど増えない)ことを財務省はわかっている。だから、法人税率引き下げについてはさほど抵抗はないし、むしろ税率を下げることで、国内外の経済界に安上がりのアピールができるメリットがある。
財務省にとって法人税率引き下げの本当の狙いは、それとのバーターである外形標準課税の導入だろう。つまり、中小零細企業をターゲットにした課税ベースの拡大である。今回の法人税率引き下げは外形標準課税導入との差し引きで「税収中立」とされているが、恐らく差し引きで増税となる可能性が高いと私はみている。

◾️自営業者のどんぶり勘定にメス

とはいえ、日本の自営業者はこれまで「クロヨン」「トーゴーサン」と言われるように税務署の捕捉がユルユルで、過保護にされてきた。中小零細企業は法人税から逃れるための見せかけの赤字企業が殆どだ。経営者の家計とどんぶり勘定で、新車購入とかガソリン代、備品購入などの本来は家計支出であるものを会社の経費として落とし、経費を膨らませることで企業収支を赤字にするのだ。
それは過去の自民党の田中派的選挙対策でもあった。そこにようやくメスを入れるという意味では、景気にはマイナスかもしれないが、公平・中立という税制の原則に鑑みれば、本来はもっと早く正すべきだった歪みと言えよう。

戦争体験談はなぜ響かないのか

Posted by fukutyonzoku on 22.2015 政治・経済 0 comments 0 trackback
今まで重く口を閉ざしてきた戦中派が、メディアに戦争体験を語るケースが増えている。今年は戦後70年という節目に当たりメディアの特集が相次いだこと、昨今の政治外交情勢に「きな臭さ」を感じていること、自らの寿命を意識する年齢に達し「遺言」を残しておきたいという思いが高まっていること--などが重なってのことなのだろう。
戦争の実態を様々な立場から語り継ぎ、記録にとどめて後世に引き継いでいくことは、戦争の実相を知り、次世代が歴史を多角的に検証する資料を残す意味でも意義深いことだと思う。しかし、いつも残念に思うのは、体験者たちの口から出てくる結論が大抵「戦争だけは絶対にしてはならない」というお題目にとどまっているケースが殆どであることだ。

◾️絶対してはいけない「戦争」とは?

たとえば、こんな疑問が沸く。絶対にダメと仰る「戦争」とは、どんな戦争を指しているのか。

①国際法上禁じられている(侵略)戦争のことか
②諸外国で行使されている集団的自衛権行使による「他衛」や「海外派兵」を含むのか
③自国防衛を含む全ての武力行使のことか--。

「戦争」の幅によって、メッセージの意味合いは全く違ったものとなる。

◾️対立点は「戦争観」なのか?

「戦争」の定義を特定した上で、それをしないためには何をどうすればよいのか、という政策論も180度違う考え方が存在する。安保法に対する世論が割れているのもこの点にある。戦争をしないためには、「平和憲法」を守り自衛隊を縛り続けるのがよいのか、反対に憲法を改正して自衛隊を国防軍に昇格させ、日米同盟を強化して抑止力を高めるべきなのか--。「戦争をしないため」という目的は同じでも、その処方箋を巡っては正反対の考え方が対立しているのが現在の世論である。対立点は「戦争をしないため」という目的、思い、戦争観ではなく、そのための処方箋なのだ。

苛烈な戦争体験を経て戦中戦後を生き抜き、次世代に教訓を残そうという志の高い先輩諸氏なら、長年考え抜いた結論が各々あるはずだが、そこを明確に語る人は案外少ない。

前の戦争で過酷な全体主義を経験し、多くの都市が空襲で焼け野原となり、世界唯一の被爆国になり、民主主義と奇跡の復興という「平和の配当」を存分に享受した日本人は、戦争への拒絶反応は恐らくどの民族や国民よりも強い。戦争体験の直接的な影響だけでなく、戦後教育やメディア環境の影響からも「戦争=悪」という感覚が理屈抜きに染みついている。従って、上記①の侵略戦争を日本が再び起こすことを心配しているのなら、それは心配のし過ぎというものだ。ヒューマニズムや人権感覚、倫理観は旧世代の日本人より今の日本人の方が遥かに進歩していると思う。自分たちの子孫を少しは信頼すべきだといいたい。

◾️理想と現実の折り合いの付け方

ところが国際社会は、必ずしも平和主義が染み付いた日本人ほどには無条件で戦争を敵視していない。核の抑止力や武力均衡や集団的自衛権行使によって平和が保たれているという考え方がスタンダードだ。戦争は避けたいが、戦争の火種は世界中に転がっているのが冷厳たる現実だからだ。その「野蛮な世界」から日本だけが超絶した存在でありたいと願ったところで、実際にはそんなふうに生きていく術はおそらくない。たとえ鎖国したところで、宇宙かどこかへ国ごと引っ越しできるわけもないので、地政学的リスクからは逃れようがない。残念だが、戦備なしの平和は現状あり得ない。

そうした現実と理想の折り合いの付け方こそが、日本の安保政策の肝と言ってもいい。「平和憲法を守れ」という日本国民は少なくないが、かといって自衛隊の解散や日米同盟の解消を主張する国民も今では皆無だ。つまりは、自衛のための戦力保持や米国との軍事同盟という現実については、大半の国民が大筋で許容しているということだ。
こうした現実を生き抜いていかなければならない私たちにとって、もし「絶対に戦争はいけない」という戦争体験者のメッセージが、自衛戦争まで否定するものなら、いくら戦争が悲惨なものだとしても我々「戦争を知らない子供たち」は受け入れ難いだろう。
これはかつて旧社会党などが主張した非武装中立論と同じだ。憲法9条(戦争放棄と戦力不保持)を最もナイーブに解釈、実行しようとするもので、たとえ侵略されようともガンジーやチベット仏教徒のように武力抵抗せず、国際社会の善意に身を委ねようとするものだ。しかし、もし侵略してくる相手が中国なら、安保理常任理事国である中国自身が拒否権を発動するため、国連は動けない。米国を中心とする有志連合が助けてくれるかもしれないが、これは集団的自衛権の行使であるから、同盟関係が平時から盤石であることが大前提となる。しかも、相手は国力、軍事力ともに世界ナンバー2の中国かもしれないのだ。米国でさえ全面衝突になるのは尻込みするだろう。
「世界には軍隊を持たない国もある」というが、これらは小国ばかりで、米国などの友好国と軍事同盟を締結したり、NATOに加盟したり、「軍」とは呼んでいないだけで準軍隊を持っていたりする。本当の意味で非武装の国など実際にはない。

◾️本当に戦争を放棄したらどうなるか

もし「絶対に戦争をしない」という「戦争」の意味が自衛戦争も含むものであるなら、尖閣諸島や沖縄のみならず日本本土が侵略されても抵抗せずに従うしかなくなる。チベットやウイグルのように中国に支配され、徹底的に弾圧、虐殺されても国際社会は事実上助けてはくれない。ユダヤ人のように国を失い、世界の流浪の民となっても甘んじて受け入れるということだ。「(自衛戦争を含めて)戦争だけは絶対にしてはならない」とは突き詰めればそういうことだ。戦中派の反戦メッセージがもしそうなら、ハッキリとその覚悟を国民に問わねばならないが、そんなことをいう人はいない。

◾️集団的自衛権反対なら単独防衛の覚悟を

もし、個別的自衛権はさすがに認めるが、これまで憲法解釈によって政府が禁じてきた集団的自衛権の行使は罷りならぬというのなら、話はわかる。ただし、その場合は日米同盟が弱体化し、いざという時に米軍は動かない事態を日本は覚悟しなければならない。中国の猛烈な経済成長とそのスピードをも上回る大軍拡、北朝鮮の核保有と弾頭ミサイルの能力増強という脅威の増大に対し、現実に日本が独力で対処するには、国力、財政、技術力、法的な制約をどうクリアしていくかは相当な難題だ。その覚悟も我々に問わねばならない。
「外交で」というのは戯言に過ぎない。外交努力で平和裏の紛争解決を目指すべきなのは当然だが、外交は常に相手のあること。いつもうまくいくとは限らない。交渉が決裂した時の「最後の砦」が武力行使であり、その備えと覚悟がなければ、相手からなめられ、交渉力は減じてしまう。武力と外交力は車の両輪と言われるゆえんだ。

◾️罪深い素朴な平和主義

もしそうではなく、今般の自衛隊の海外派兵等の役割拡大(上記②)に対し、何となくきな臭さを感じているだけだとすれば、心情としては理解する。ただ、「空気」という感覚だけで拒絶反応を示す素朴な平和主義には、子供の無自覚な残酷さと同類の罪深さを感じる。なぜなら、日米同盟の強化や自衛隊の役割拡大の推進派の多くは、日本の安全保障のためにそれが必要だという信念で語り、動いているからだ。つまり「戦争を防ぐため」という思いは反対派と同じなのだ。
そのことは結果的に日本が戦争に巻き込まれる危険を高めるかどうかという議論は、処方箋(政策)の妥当性やメリット、デメリットの比較考量の問題であって、「戦争を防ぐため」という目的についての対立ではない(政権の軍需産業との癒着といった「陰謀論」を言い始めればキリがなくなるが…)。
だとすれば、その信念を疑うような情緒論は、論点を理解しておらずピント外れであるばかりか、感情的な対立を煽る結果にしかならない。

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