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福田前次官の「セクハラ」は本当にセクハラか?

Posted by fukutyonzoku on 26.2018 メディア 0 comments 0 trackback


報道されている通りだとすれば、福田淳一前財務事務次官の言動は、財務省事務方トップと担当記者という双方の立場を考えれば、同義的、倫理的に唾棄すべきものであることに全く異論はない。テレ朝の女性記者の上司が「報道できない」と判断したことも、彼女がそのために週刊新潮に匿名で情報提供したことも、よくあることで、理解はできる(実際、週刊誌報道のネタ元は少なからず新聞・テレビ記者だったりする)。しかし、法的には「セクシャル・ハラスメント」と断定できるのか、という論点に絞れば、厚労省のセクハラ指針(9p~)をみる限り、微妙ではないかと思う。

🔳 「平均的な女性労働者の感じ方」が基準

「おっぱい触っていい?」「手縛っていい?」「不倫しようね」は、仮に冗談のつもりだとしても、厚労省指針が指摘している「性的なからかい」であり、「性的な言動」であることに疑問の余地はない。ただ、女性記者がそれを拒絶したり抗議することで、例えば取材を門前払いされるようになったなど、職業上の不利益を受けたわけではない。つまり、法的な分類では「対価型」ではなく、可能性があるのは「環境型」セクハラということだ。
「環境型」の場合、意に反した身体的接触があれば無条件でアウトだが、言葉だけの場合は明確な白黒の線引きはない。被害者の受け止め方が重要だが、かといって被害者が「セクハラだ」と思えば無条件にセクハラになるわけでもない。厚労省の指針にも「労働者の主観を重視しつつも…一定の客観性が必要」「被害者が女性の場合は『平均的な女性労働者の感じ方』を基準とする」ことになっている。
つまり、酒席での「おっぱい触っていい?」等について「私はセクハラとは思わない」との女性のコメントも少なからずあることを考えれば、少なくとも法的にはセクハラと即断はできない。

🔳「報道すべき」という判断と、個人としての苦痛や業務上の支障とは違う

また、テレ朝の女性記者は福田氏に抗議したのか、あるいは上司に「セクハラ被害者」として組織的対応を求めたのか、という疑問も残る。
テレ朝の会見での説明によれば、女性記者は上司に相談したというが、その相談内容は「報道したい」ということだったようだ。上司から報道できないと告げられた時点で、それでは一労働者、一被害者として財務省に抗議や提訴をするとか、あるいは我慢できないので担当を代えてほしい、といった意思を会社に対して示したのか、という点は不明だ。
記者が報道すべきだと考えることと、一個人として受忍限度を超えた苦痛を感じているかは、似ているようでいて別の問題である。彼女が記者として「ネタとしてやるべき」だと考えたとしても、もし個人的にはそれほど苦痛には感じておらず、内々に抗議したり裁判に訴えたり担当を代えてほしいとまでは思っていないとするなら、直ちにセクハラ被害者とは言いにくくなる。そのあたりの事情はこれまでの報道では何も伝わっていない。

🔳女性記者は本当に「従属的な立場」だったのか?

さらには、この2人の関係は果たして支配・従属の関係と言えるのか、という問題もある。
環境型セクハラの場合、加害者は必ずしも上司や支配的な力のある者である必要はないが、このケースは「職場環境の悪化」に当たるのか、ということだ。
彼女は、福田氏に度々呼び出され、酒を共にしていたという。これは彼女がもし100%仕事であると感じ、断りにくかったとしても、少なくとも福田氏とは直属の上司といった支配的な関係ではない。一般企業に置き換えれば、福田氏は彼女が担当する取引先の副社長か実力専務といったところだろうが、一般企業の取引関係と違うのは、記者にとって取材先はそれほど従属的な関係ではないということだ。
私も旧大蔵省をはじめ幾つかの中央府省庁を担当した経験があるのでわかるが、事務次官にはその省庁に関わる重要情報はほぼ全て入ってくるので、懇意になれば情報を得やすいのは確かだ。しかし、かといって仮に事務次官との関係をうまく築けなくても、それだけでは仕事上それほど決定的な障害にはならない(誘いを断ったり抗議したりすることで嫌がらせを受けたのなら、対価型セクハラとなる可能性が高いが…)。なぜなら、役所の取材先やネタ元(ディープスロート)になり得る幹部は、大臣、副大臣、政務官、官房長、総務審議官、各局長、局次長、各官房審議官、課長クラス…など、いくらでもいるからだ。直属の上司のように事務次官がその府省庁担当記者の生殺与奪の権を握れるわけではない。避けようと思えば避けることができた関係であったはずなのだ。

それを考えた場合、彼女のケースは、事務次官に店に呼び出されて卑猥な言葉を何度か浴びせられたことが、厚労省指針の判断基準にある「就業する上で看過できない程度の支障」と言えるのか、という点でも疑問が残る(もちろん、女性によっては仕事や体調にも悪影響を及ぼすほど心にダメージを負う場合があることは否定しないが)。

本当に嫌なら誘いを無視したり、適当な嘘をついて避けたりすることもできたはずだし、直接本人に強く抗議することもできたはずだ(実際にそうしたか、しなかったかは不明)。さらに言えば、例えば隠し撮りをした音源をその場で再生し、脅して今後一切の猥談をやめさせることもできたはずだし、もしかしたらそれをゆすりの材料として情報を得ることさえできたかもしれない。
それよりも彼女は、次官の酒席の猥談を隠し撮りし、それを「セクハラ次官」として週刊誌に書かせ、福田氏を社会的に抹殺することを選んだということだろう。福田氏は人格や倫理の問題以前に、脇の甘さ(リスク管理能力の欠如)だけで次官失格ではあるのだが。

麻生太郎財務相や安倍政権擁護一辺倒の自民党議員らを弁護したくはないのだが、「はめられたのではないかという意見もある」との解釈は、現時点で公にされている情報を基にすれば、それほど突拍子もない解釈とも言い切れないのだ。下村博文元文科相の「ある意味、犯罪だと思う」は論外だが。
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“週刊文春みたいな仕事”は恥ずべきものだ ~週刊誌は安心して退場を

Posted by fukutyonzoku on 01.2018 メディア 0 comments 0 trackback
講談社の「フライデー」や「週刊現代」の編集長を歴任した元木昌彦氏が、プレジデント・オンラインに、「“週刊文春みたいな仕事”は恥ずべきものか ~ 雑誌が消えれば取り返しはつかない」という記事を書いていた。元木氏は週刊現代編集長時代に「ヘアヌード」という言葉を創り積極的に展開、一世を風靡した名物編集者なのだそうだが、正直、週刊誌編集者のジャーナリズムに対する意識の低さに呆れ果てたので、反論しておきたい。

◼︎雑誌メディア全体の存在意義と文春の存在意義は別

「週刊文春」は今回、大物音楽プロデューサー、小室哲哉の不倫をスクープした。小室は文春の報道を受けて記者会見し、クモ膜下出血で倒れてリハビリ中の妻KEIKOさんの介護の孤独や辛さを率直に話し、看護婦との男女関係を否定。さらには音楽プロデュースの仕事から引退すると宣言。予想外の会見内容に、SNSなどで小室への同情が広がり、芸能人の「不倫」を相次いで報じている文春へのバッシングが逆に高まっている。元木氏の記事は、そうした「文春バッシング」や週刊誌バッシングに対する反論を意図したものだ。

まず、芸能人の不倫を飯の種にする週刊誌報道の是非が問われているのに、「雑誌が消えれば取り返しはつかない」と雑誌メディア全体の存在意義に話をすり替えるのは、論点ずらしでしかない。文春というメディア、あるいは週刊誌というメディアがなくなるかどうかは結局、マーケット(購買者)が決めることだ。
一口に「雑誌」といっても、ゴシップやメディア批判、グラビア、裸ならWebサイトにも溢れているので、それだけが売りなら既に存在意義を失っている。政治家のスキャンダルなら、週刊誌がリークの受け皿に選ばれているだけなので、週刊誌がなくなっても受け皿となる夕刊紙やスポーツ紙、テレビ、ネットメディアなどはいくらでもあるだろう。
百歩譲って、仮に「雑誌が消えれば取り返しはつかない」というへ理屈を受け入れたとしても、消滅しないために努力する責任は発行者側にある。「批判するより応援すべきだ」と国民や購読者に責任転嫁するような言い回しは筋違いだ。応援してほしいなら、批判に謙虚に耳を傾ける姿勢を示すのが先だろう。

◼︎ 芸能人は政治家と同じ「公人」?

また、元木氏は「神楽坂の芸者に3本指(月30万円)でオレの愛人になれといったことを週刊誌でバラされ、わずか60日で総理の座から滑り落ちた政治家がいた」例を挙げ、週刊誌は芸能人の不倫だけでなく権力者のスキャンダルもちゃんと追及していると強調している。しかし、これをスクープしたのは、「週刊誌」とは言っても文春などの出版社系雑誌ではなく、新聞社系の「サンデー毎日」である。
この報道の影響もあって総選挙で大敗し、「総理の座から滑り落ちた政治家」は、宇野宗佑元首相である。なお、彼を告発した神楽坂芸者は「週刊朝日」にも同じネタを持ちかけていた。
節操のない出版社系の週刊誌に比べれば、新聞社系の週刊誌は報道倫理が比較的しっかりしている。それをやれば部数が伸びることがわかっていても、出版社系のような芸能人のセックススキャンダルや裸はやらない。
これに対して出版社系週刊誌は、ある時は新聞社系と出版社系を一緒くたにして「権力の腐敗追及もやっている」とジャーナリズムの正義を語り、実は情報の多くを新聞記者への「取材」に頼っているくせに、一方でそのことを隠してながら新聞批判をウリにする。「タブーに斬り込む」と言えば聞こえはいいが、一事が万事、こうした無節操なご都合主義で成り立っているのが出版社系週刊誌だ。

かつて主要メディアの政治部には政治家の下ネタは記事にしないという不文律があったが、「サンデー毎日」のスクープ報道はその政治報道文化を善くも悪くも変えた。ちなみに当時のサンデー毎日編集長は鳥越俊太郎氏だった。
今でもフランスやイタリアなどでは「政治家のセックススキャンダルは記事にしない」「政治家としての能力と下半身の節操は別物」という考え方が根強く、日本でもサンデー毎日の「3本指」報道に対する批判は今でもある。しかし、いずれにしてもターゲットは政治家であり、総理大臣だった。公人中の公人なのだ。

対して、小室哲哉は「公人」か?

「公人」とその対義語である「私人」という言葉は法律用語ではなく、明確な定義はないものの、Web辞書によると、狭義の公人は「公職に就いている者」、広義では「社会的な立場にある者」とある。ただ、「社会的な立場」とはどの職業やどのポストまでを含むのかは曖昧で、明確な定義は存在しない。
広義の公人に関連して「みなし公人」なる概念もあるという。教員や弁護士、実業家、芸能人、芸術家、ジャーナリストまで含まれるらしい。
典型的な「みなし公人」はファーストレディーの安倍昭恵氏だろう。本人は公職に就いているわけではないので、安倍首相は「家内は私人」と国会答弁で言い放ったが、納得した国民は皆無。法的な職権や職責は何もないのだが、非公式には総理大臣並みの影響力を持ち、実際に行政を歪めた疑いが極めて濃いのだから、彼女以上の「みなし公人」は他にはいない。
要するに、「みなし公人」とは「有名人だから」とか、「この職業だから」と単純に線引きできるものではない。例えば公務員でも、たいした職権のない下級職員と立法や政策に影響力を行使できる幹部職員を一律に同じ「みなし公人」と扱うのは不適切だろう。一般人なら報道しないような軽犯罪で「○○省の職員」「○○会社社員」というだけで報道している現状は、おかしいのではないか。

◼︎「公人」にプライバシーはない?

ただし、法的には「総理大臣にもプライバシーや人権はある」との解釈が一般的だ。公共の利益(公益)に関わる可能性があることについてはプライバシーではないとの考え方が一般的なので、総理大臣のプライバシーの範囲は自ずと限定されてくる。とはいえ、例えば食事の好みや性癖、趣味などは、本人の健康や政治的資質が疑われるほど異常なものでない限りはプライバシーと言えるだろう。ましてや、それ以外の公人やみなし公人のプライバシーの範囲はさらに広いはずだ。

いずれにしても、「公人」のプライバシーや人権が制限されるケースは、公益に関わるかどうかの一点に尽きると言っていい。

◼︎小室の不倫は公益?

たとえば、米ハリウッドでは、大物プロデューサーらの長年にわたるセクハラ行為が次々と暴露され、「#Me_Too」騒動として世界中の政界、経済界、スポーツ界、メディア業界に広がりをみせている。性的暴行やセクハラ行為は権力を利用した犯罪であり、実際に警察も動いている。ハリウッドの件だけでも被害の広がりをみれば、単なる属人的なセックススキャンダルではなく、米エンタメ業界全体の体質や女性の人権に広く関わる問題だ。ニューヨークタイムズがスクープしたのは、そうした公益性を判断してのことだろう。

小室哲哉も有名な超大物プロデューサーなので、広義の公人と言えるかもしれない。しかし、彼の看護婦との不倫は公益にいったいどう関わると言うのだろうか。

不倫するような奴が作った音楽は社会の風紀を乱す、とか?

それとも、若者のカリスマだから青少年の倫理観に与える影響は無視できない、とか?

バカバカしい。ヘアヌードまで載せて稼ぎながら、社会の風紀や青少年への倫理的影響を問う資格が出版社にあるとは到底思えない。もし青少年の倫理観に悪影響を与えているとすれば、その原因をつくっているのは、毎週のように大人の不倫を世間に晒している週刊誌やテレビ自身にある。

別の理屈があるなら聞いてみたいものだ。

相手の看護婦はシングルマザーだと伝えられているので、被害者と言える可能性があるのは小室の妻KEIKOさんだけだろう。しかも、不倫は刑罰に処せられる「犯罪」ではない。小室とKEIKOさん2人だけの民事上の問題だ。つまり100%プライベートな問題と言え、#Me_Too問題とは根本的に違う。

◼︎公益無視が「ジャーナリズム」?

元木氏は「権力者のスキャンダルも芸能人の不倫も、週刊誌にとっちゃ貴賤の別はない。判断基準は面白いかどうかだけだ」と書いている。「貴賤の別」という表現が的外れなのは置いておくとしても、つまり彼は週刊誌は面白ければよい、売れればよい、公益などどうでもよい、と白状している。そう開き直りながらも、一方で週刊誌を「雑誌ジャーナリズム」と定義し、その社会的な存在意義を主張している。公益を無視するジャーナリズムが果たして「ジャーナリズム」の名に値するのだろうか。ダブルスタンダードとしか言いようがない。

元木氏は「自分を世間に常に露出することでその存在が成り立つ人は公人」とも書いているが、根拠は不明だ。どれほど有名人であろうと、たとえば北野武などのように世評や主義主張を日頃よく語り、発言が政治や社会に一定の影響力を持っているようなタレントでもない限り、そのプライバシーが公益に関わることが実際あるのだろうか。北野でさえ女性関係は公益とは無関係だろう。むしろ、公務や公益とは無関係の「公人」のプライバシーを暴くことでその人の仕事を奪い、才能を葬り去ることになれば、むしろそうした報道こそが公益に反しているのではないか。
元木氏は「才能を不倫報道などでつぶしていいのか、という批判もあるようだが、それでつぶれるような才能はそれまでのこと」と言う。これはスキャンダルメディアの常套句だが、子供じみた言い訳に過ぎない。酒席で貴ノ岩を暴行した日馬富士が「あの程度の『かわいがり』で潰れるようなら、その程度の力士だということ」と言い訳するようなものだ。

◼︎報道の自由を貪り、法的不備につけ込み儲ける週刊誌メディア

有名人はすべて「公人」であり、プライバシーはない、という単純な決めつけは、イエローメディアのご都合主義的なルールに過ぎない。必ずしも法的、社会的に共有されているルールではない。事実、週刊誌は名誉毀損で訴えられ、結構敗訴している。
それでも裁判所が認定する慰謝料はせいぜい数百万円程度なので、大手出版社にとっては痛くも痒くもない。仮に訴えられて敗訴し、慰謝料を支払ったとしても、際どいネタで雑誌が売れれば十分にお釣りがくるからだ。つまり、有名人のスキャンダルやプライバシーは金になるので、ビジネスとしてやっているだけなのだ。
元木氏も「不倫取材の一部始終を写真や動画のパッケージにして、ワイドショーに買わせるというビジネスが、文春の大きな収入源になってきている」と説明しているように。「雑誌ジャーナリズムとは」といった大上段の理屈は、所詮後付けの屁理屈に過ぎない。

逆に言えば、有名人のプライバシーが守られないのは、こうしたビジネス上の利益の大きさに対して、裁判所が認定する名誉毀損などの慰謝料の相場が低過ぎるためとも言える。プライバシーを暴かれた有名人も報道が大筋で事実なら仕方ないと大抵は諦める。裁判で闘っても週刊誌に余計に叩かれ続けるだけだし、事実関係が概ね間違っていなければ裁判では負ける可能性が高い。裁判では、事実認定や「事実と信じるに足る状況証拠」が十分かどうかといった点だけが争点になるケースが多く、そもそもプライバシーより優先される「公益」が存在するかどうか、という肝心な点がスルーされているケースが多いように見える。このため、事実関係が大筋で間違ってさえいなければ、週刊誌側が勝訴するケースが多い。この司法判断の傾向は、「報道の自由」寄りで、書かれる側の人権・名誉・プライバシーの保護を軽く見る時代遅れの感覚ではないかと感じることが多い。もし有名人側が勝ったとしても、取れる慰謝料は微々たるものなので、相手の出版社に打撃を与えることもできない。

これは法律の不備と言ってよい。

◼︎国民には公益と無関係のプライバシーを「知る権利」などない

「そんなことを言っても、実際売れてるじゃないか」「売れるということはニーズがあるということで、すなわち国民の知る権利に答えている」と開き直る雑誌人もいそうだが、これは倒錯した論理だ。確かに人間には覗き見趣味や願望は多かれ少なかれ誰にでもある。しかし、公益とは無関係の他人のプライバシーを知る権利など国民にはないし、それを暴く責務も自由もメディアにはないからだ。

一般論としてメディアは多様性があった方がいいし、多様なメディアが存在していることが国民の知る権利に応え、民主主義社会の土台となる。しかし、一方で真偽不明の怪しい情報やプライバシー・人権を踏みにじる報道が氾濫することは、報道の自由そのものの価値と報道機関に対する国民の信頼とを毀損し、民主主義の土台を脅かすリスクがある。週刊誌メディアはその罪に対して無自覚か、意図的に無視している。自らの商法を否定することになるからだ。そして、ポピュリズム(大衆迎合)が絶対的な真理だと信じ込もうとしている。それは自分たちが飯の種にしているスキャンダリズムを正当化するための歪んだ論理に過ぎない。

◼︎学生との議論から逃げた「元教員」

元木氏は以前、大学で「編集」を教えていたそうで、必ず何人かの学生から「フライデーはプライバシー侵害をしている」「人権侵害もあるのではないか」「恥ずかしくないのか、フライデーみたいな雑誌をやっていて」と質問され、こう答えていた、と書いている。

そういう批判がよくある。いくらでも反論できるが、そう考えている学生は、今すぐにここを出て行って、絶対、出版社を受けようなどと考えるな

学生の質問や疑問に正面から答えようともせず、自分たちの「掟」を問答無用で押し付け、従わない奴は出て行け、出版社にも来るな、と。これは議論ではなく脅迫である。そもそも、こんな恥ずかしい振る舞いを自慢げに書く神経がどうかしていると思うが、こんな教員に教えられる学生たちも可哀想である。

さらには、こんなことも書いている。
『ジャーナリズムとしてのパパラッチ』(内田洋子著/光文社新書)の中で、イタリアの名編集者、グイド・カルレットはこういっている。「報道の自由とプライバシー保護のどちらかを選べ、と言われて、倫理観に縛られて<プライバシーの保護>を選んでしまうようでは、マスコミで働く意味はない」”

このパパラッチ編集者が本当に「名編集者」なのかどうかはともかく、こんな極端な二択を迫って「報道の自由」側に立つのだ、と粋がってみせても、プライバシーを無視することの免罪符にはならない。「迷ったら書け」という現場哲学は分かるが、あなた方の根本的な問題は「そもそも真摯に迷っていない」ことにあるのだ。

◼︎日本で一番プライバシーを考えているのは週刊誌?

日本で一番プライバシーについて考えているのは、週刊誌の編集者たちであることは間違いない」と何の根拠もない断言をしているが、私に言わせれば、それはビジネス上のリスク管理という当たり前のことをしているだけのことだ。「編集長は場合によって顧問弁護士の意見も聞く」とも書いているが、裁判になった場合の見通しと敗訴した場合の慰謝料を気にしているだけのことだろう。つまりは、ビジネスとしてプラスかマイナスかを考えているだけであり、それは自慢するような話ではなく、商業メディアなら当たり前のことだ、と突っ込みたくなる。新聞社はもちろん一般企業にも法務部や法務室があり、顧問弁護士が常駐しているのは常識だ。残念ながら、ジャーナリズム倫理やターゲットの人権を真剣に「考えている」ようにはとても思えない。

国民の知る権利に体を張って応えている雑誌がなくなれば、情報も雑誌とともに消えてしまう」と元木氏は言う。文春を含む週刊誌メディアの殆どが「国民の知る権利に体を張っている」とはもても思えない。むしろ、国民の知る権利を拡大解釈し、権利の基盤を危うくしているのではないか。「情報も雑誌とともに消えてしまう」というが、週刊誌が消えたところで公益にとって真に重要な情報が消えることはないだろう。どうぞ安心して消えてください、と言いたい。

「24時間テレビ」という偽善チャリティー番組で儲ける日テレは番組収支を公表せよ

Posted by fukutyonzoku on 04.2016 メディア 0 comments 0 trackback


今夏の日本テレビ系『24時間テレビ 愛は地球を救う』の裏番組としてNHKーEテレが8月28日19:00~19:30に生放送した「バリバラ」の「笑いは地球を救う」がネットで話題騒然となった。

◼︎NHKが「24時間テレビ」を徹底批判

「笑いは地球を救う」は、「24時間テレビ」を徹底的にパロディーにして笑い飛ばし、障害者を「感動」の具とする番組内容に対し、障害者自身を含む出演者たちが口々に異を唱えた。NHKとは思えない攻撃的かつ野心的な番組は、ツイッターで多くつぶやかれた言葉を集計する「Yahoo!リアルタイム検索」で20時台、「バリバラ」が3位、「感動ポルノ」が4位など、24時間テレビを上回る順位を記録した。
番組のキーワード「感動ポルノ」は、自身も骨形成不全症を患いながら豪州でコメディアンとジャーナリストとして活躍したステラ・ヤングさん(1982~2014年)が唱えた造語だ。番組ではヤングさんの講演ビデオも流されたが、障害者を健常者が感動するための「モノ」扱いするような行為を指す概念とのこと。この場合の「ポルノ」は裸とは無関係で、「みせ者」「晒し者」といった意味合いで使われている。
また、番組では、「感動ポルノ」的な障害者の番組について、当の障害者の90%が「嫌い」と答えた、とのアンケート結果も紹介されていた。
放送後も続いた討論の動画も番組ホームページで公表されている。


◼︎「チャリティー」なのに高額ギャラ

「24時間テレビ」は、この「感動ポルノ」の問題のみならず、出演タレントへの高額ギャラの問題も週刊誌等で指摘されながら、うやむやのままだ。24時間マラソンランナーのギャラは1000万円とも2000万円とも言われている。パーソナリティーや出演歌手、タレントにもそれぞれ数百万円レベルの出演料が支払われている、と週刊誌などが何度も報じている。
この高額ギャラが本当なら、国際的な常識では「チャリティー番組」としてはあり得ない。「チャリティー」を称するなら、ボランティア出演が当たり前で、彼らに良心があればギャラは受け取れないはずだ。
米国の「レイバーデイ・テレソン」、フランスの「テレソン」といった海外のチャリティー番組でも、大物歌手だろうがタレントだろうが、すべてノーギャラだ。1984年、アフリカの飢餓救済を目的に英国のアーティストたちが「Band Aid」プロジェクトを立ち上げ、翌年米国でも「USA For Africa」に大物アーティストたちが続々と結集。マイケル・ジャクソンが曲を書いた「We Are The World」は世界的な大ヒット曲となったことは誰でも知っているが、この収益は全額アフリカへの食料援助に寄付されている。マイケルはもちろん参加アーティストたちは誰一人、1㌦も受け取っていない。「チャリティー」である以上、出演者はノーギャラというのが世界の常識なのだ。

◼︎「チャリティー」を謳うバラエティー番組

「有名タレントは視聴率と寄付金を集める力がある。ギャラを払ってもお釣りがくるなら、いいじゃないか」「ギャラは寄付金から出しているわけではないから問題はない」と反論する業界関係者も少なくない。しかし、それならそれで、世間が誤解しないように、その考え方や全体収支をきちんと公表するのが、全国的な「チャリティーイベント」を挙行するテレビ局側の最低限の義務であるが、公表されていない。
番組を放送する日テレ系列の全国31局でつくる「公益社団法人24時間テレビチャリティー委員会」のホームページでは、「皆様からお預かりした寄付金は、経費を一切差し引くことなく、全額、支援活動に活用させていただきます」と説明している。笑ってしまうほど簡単な毎年度の事業計画書と決算報告書も一応掲載されているが、これはあくまで「チャリティー募金」に関わる部分だけの会計報告だ。
実はこの番組は、通常の民放番組と同じように企業のCMスポンサーがおり、当然スポンサー収入がテレビ局側に入っている。その収入は福祉団体に寄付されているわけではなく、通常の番組と同様にテレビ局の収益となっている。その中から出演タレントへのギャラを含む番組制作経費が支払われているらしいのだ。
つまり、集まった寄付金は公益事業として別団体の公益社団法人(24時間テレビチャリティー委員会)が処理しているが、番組自体は通常のバラエティー番組として企業からスポンサー収入を得て制作・放送するという二重構造になっているのだ。「チャリティーを看板にし、実際に募金活動を行うバラエティー番組」というのが実態なのだ。

◼︎日テレの儲けは18億円?

この「バラエティー番組」部分の収支は一切公表されていないが、写真週刊誌『FLASH』の3年前の報道によれば、「事情を知るプロデューサー」の話として、番組の総制作費は4億2000万円、CM収入合計が22億2750万円だという。寄付金総額は毎年10億円前後だから、その2倍以上ものスポンサー収入があることになる。この「総制作費」が番組制作経費の全額を指すのだとすれば、22億2750万円-4億2000万円=18億750万円がテレビ局側の営業利益ということになる。
つまり、日テレとその系列局、制作会社、芸能事務所や出演タレントらは、障害者の「感動」ストーリーを売り物に一般大衆視聴者から寄付を集めながら、その実、自分たちは放送ビジネスとしてちゃっかり儲けているのだ。
寄付をした人たちの一体どれだけの人がこの番組の二重構造を理解した上で寄付しているだろうか。おそらく皆無だろう。「チャリティー」の看板を掲げている以上、全体像を包み隠さず公表しない限り、障害者を食い物にする「偽善チャリティー番組」という誹りは永久に免れないと思う。

NHKドキュメント72時間「どしゃ降りのガソリンスタンドで」に見る壮絶人生の数々

Posted by fukutyonzoku on 29.2014 メディア 0 comments 0 trackback
NHK「ドキュメント72HOURS」の年末スペシャルを見た。朝まで何本も続けて再放送していたが、なかでも「どしゃ降りのガソリンスタンドで」が印象的だった。

http://m.youtube.com/watch?v=qwDsAcMX8k0

舞台は神奈川県相模原市のある24時間営業のガソリンスタンド。土砂降りのなかで取材は始まる。思わず絶句してしまうような壮絶な人生を生きている人たちがこんなにもいる。そのリアリティーの前には、どんなドラマも霞んでしまう。

・長距離ドライバーの運転手という50代と思しき男性。これから児童養護施設に預けている子供に会いに行くという。子供の母親とは離婚したが、母親は子供を引き取らず、置いていったという。男性は長距離ドライバーという仕事柄、家を何日も空けることが多いので、子供を施設に預け、仕事から帰ると子供に面会に行っているという。

・70歳前後とおぼしき男性。これから河口湖のフリーマーケットに手製の竹トンボを売りに行くのだという。「雨だから中止になるかもしれないけど、小雨決行なんだよ」。中止かもしれないのになぜ行くのか。「こういう時にコネを作っておかないと、売れる時に参加できないんだよ。どんな仕事も楽じゃないよ」。かつては街の電器店を経営していたが、大型量販店の進出で立ち行かなくなり、店を畳んだ。年金だけでは生活できないので、今の仕事を始めたという。翌日、この男性が再び同じスタンドに。「売れましたか?」「3000円くらい」。ガソリン代を差し引けば赤字だろう。売れる時には1万円以上になることもあるのだとか。車には妻とまだ小さなお孫さん。家には出戻りの娘さんがおり、週末にも仕事に出ているため、孫を預かって3人でフリマに出掛ける生活を続けているという。

・害虫駆除の仕事を自営でやっているという30代ほどの男性。10年前に妻が料理中に突然バタンと倒れ、くも膜下出血で亡くなった。幼い一人息子はそれから学校でイジメられ始め、小学4、5、6年と殆ど学校に行ってないという。息子と過ごす時間が作れるからという思いもあり、会社をやめて独立に踏み切った。「世界初」という高周波音によるネズミ撃退器が売りらしいが、仕事はなかなか軌道に乗らず、手探りの状態だという。左手の薬指には亡き妻との結婚指輪が今も。

・30~40代くらいの女性。これから子供の部活の試合を見に行く途中だという。この女性は離婚し、シングルマザー。ところが姉も同じ頃に離婚し、心を病んで子供を残して自殺。その子を引き取り、自分の子とともに3人の子供を育てているという。部活の試合に行く子供はどちらの子供かは不明だが、「補欠だから試合に出るわけでもないんですよ。でも、ちゃんと見てるよ、と伝えたくて」。

フジテレビが9月21日(日)夜放送した「Mr.サンデーSP 生存高校生が初めて語る“奇跡の生還”~韓国セウォル号沈没の真相~」

Posted by fukutyonzoku on 22.2014 メディア 0 comments 0 trackback
フジテレビが9月21日(日)夜放送した「Mr.サンデーSP 生存高校生が初めて語る“奇跡の生還”~韓国セウォル号沈没の真相~」を視聴した。



「生存者72名の新証言&船内外の沈没映像16本&事故当日写真275枚などを基に、セウォル号沈没事故で生き残った高校生たちの生死を分けた闘いを再現ドラマ」として構成した。
http://www.fujitv.co.jp/mrsunday/index.html

生き残った高校生の一人は「この国では本当のことを伝えてくれない。外国のメディアの力に頼るしかないと思い、取材に応じることにした。外国のメディアが取材してくれることに感謝している」と語った。

このドラマ仕立てのドキュメンタリーは、犠牲になった高校生たちが可哀想で、涙なしではみることができない。ただし、折角いいドキュメンタリー番組をつくりながら、CMを細切れで詰め込み過ぎて、かなりストレスが溜まった。これはもう少し視聴者に配慮すべきだ。スポンサーにも怒りが向きなかねず、宣伝としても逆効果だと思う。



船内で海水にのみこまれたほんの少しの逃げる順番の差で親友2人と生死の明暗を分けた少女。同級生を励まし続け、自力脱出を先導しながら自らは犠牲になったリーダー格の少女。事故当初、危機感が薄かった同級生らに救命胴衣を率先して配り、脱出を呼びかけ続けながら全員を助けることができず、自らは傾いた通路をロープでなんとか上り切って助かった少年は、今も「たくさんの友を見捨ててしまった」と自責の念に苛まれている。
番組を視聴しながら、無責任な韓国の大人たちに改めて怒りが込み上げてきた。番組が伝えた主な情報を箇条書きで記録に留めておきたい。

・船長は、休暇の船長の代理だった。

・副船長は入社したばかり。乗船前に乗組員の前で「新前なので、いろいろ教えてください」と挨拶。

・船長の判断で過積載を行い、そのことによる海中への船の過度の沈み込みをごまかすために、この代理船長自ら船底の重りとなるバラスト水を抜いて船を軽くし、船をより不安定にさせた。確信犯的な過積載。

・当日は深い濃霧で、他にも同じ港で待機していた船が何隻もあったが、出港を強行したのはセウォル号のみ。視界はわずか80㍍しかなかった。売店の乗組員だったパク・チヨンさんでさえ、家族に「こんな濃霧の中で出港するのは怖い」とメールを送っていたほど。セウォル号だけなぜ出港が港湾管理当局に許可されたのか? 賄賂説も。

・当初予定では、潮流が速くて操舵が難しい事故現場は一等航海士が操舵する勤務ローテーションが組まれていたが、出港時刻が予定より大幅に遅れたため、事故が起こった難しい海域の操舵は入社4か月の新人女性三等航海士が担当した。出港時刻がズレても仕事の時間は変えなかったらしい。新人三等航海士は、理由は不明だがなぜか急旋回し、過積載等もあって横転した。

・その三等航海士は事故直後、すぐに直属の上司にメールし、船長の問題などを訴えて保身のための行動を素早く取っていた。救助のための行動は何もせずに。

・横転後、操舵室に入ったフィリピン人専属歌手夫婦の証言によると、船長は動転して立ったり座ったり、まさにパニック状態だった。他の操船スタッフも同様。歌手の夫が「救命胴衣はないのか」と聞くと、船長は「そうだ、救命胴衣を出せ」。「救命ボートは?」と聞くと「そうだ、救命ボートを出すんだ」と、聞かれてから初めて気づいて指示を出す始末。こいつらは当てにできないと、夫妻は自力で脱出した。また、操舵室出入り口近くの通路では、事故後も航海士2人が呑気に缶ビールを飲んでいたという。

・事故直後にも報道されていたように、事故後の船内放送は「その場を動かないでください」と繰り返し放送されただけで、救命胴衣着用や脱出を呼びかけるアナウンスは一切なかった。高校生を含む乗客は、自らの判断で救命胴衣を着た。

・船長は我れ先に脱出し、海洋警察には一般乗客だと偽って救助された。

・海洋警察は、「まだ仲間が船内に取り残されている」との高校生らの必死の訴えを無視して「もう誰もいない」と救助を一方的に打ち切った。実はこの海洋警察、沈没船の救助経験はもちろん訓練さえしたことがなかった。海難事故の救助訓練を受けた特殊部隊は韓国全土で釜山1箇所にしかなく、出動したが現地に到着するまで2時間以上もかかり、間に合わなかった。



・売店に勤めていた前記パク・チヨンさんは、乗組員の中で唯一、自分の判断で高校生らに救命胴衣を配りながら着用を指示。彼女は売店で働きながら三等航海士を目指していた。高校生らに救命胴衣を配って着させながら、本人は着てなかった。ある生徒が「あなたはなぜ着ないの?」と尋ねると、「乗客が先。乗組員は乗客全員が着終わった後で着ます」と答えたという。彼女も犠牲になったが、実は彼女は泳げなかった。