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村上春樹へのレクイエム

Posted by fukutyonzoku on 10.2020 日記 0 comments 0 trackback
 伝え聞くところによると、村上春樹自身はノーベル賞が欲しくて欲しくてたまらないらしいが、受賞できないと予想する文学関係者は少なくない。
 この記事もその辺りの事情を分析している。いわく、村上作品はアメリカかぶれで、特にフィッツジェラルドやヴォネガットら白人男性文学やジャズなどアメリカンポップカルチャーへの傾倒が強く、日本人としてのアイデンティティーやマイノリティーの視点が弱いこと。スウェーデンアカデミーにはアメリカ嫌いが多いから、とか。なるほど。
https://news.yahoo.co.jp/byline/konosuyukiko/20201008-00201795/

 私の恥ずかしい青春期のことを少し晒そう。村上春樹が世に出た時期は私の高校~大学時代に重なっていたこともあり、ご多分に漏れず私も読んだ。「ノルウェーの森」までの初期3部作だけだが。英米小説の翻訳のようなお洒落な文体とお洒落な恋愛に、10代の私も憧れた。春樹を読むとバドワイザーを飲みたくなった。春樹の影響を受けてハヤカワ文庫でヴォネガットの翻訳を読んでみたりもした。
 しかし、高校時代にビートたけしや長渕剛の深夜ラジオ「オールナイトニツポン」を聞きながら、密かに読み耽っていた漱石、太宰、三島、北杜夫(「どくとるマンボウ」シリーズ)、遠藤周作(狐狸庵「ぐうたら」エッセイシリーズ)などのように、どハマりすることはなかった。高校時代は恥ずかしながら「群像」「すばる」などの文芸誌もよく読んでいたし、田辺聖子の明け透けなエッセイも好きだった。そのせいか、高校の勉強は全くと言っていいほどやらなかった。現実逃避だったかもしれない。
 当時は、同世代の若手作家、村上龍も「ダブル村上」として売れていたが、龍の方は横田基地周辺の米軍住宅で繰り広げられるドラッグ乱行パーティーという過激な題材で、当時のノンポリ学生の気分や現実とはあまりマッチしていなかった。
 同じ頃、まだ東京外大の学生だった島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』(1983年)でデビュー。これも読んだが、少し前の世代まで僅かに残っていた学生運動(革マル、中核)の残滓へのレクイエムで、大多数のノンポリ学生にとっては近くて遠い世界だった。
 春樹がこの時代の若者の空気感に最もマッチしていた。単純化して言えば、大学生の若者が主人公で、ナイーブなインテリの匂いを漂わせたお洒落な恋愛小説だったからだ。
 当時の若者は大人たちから「新人類」と揶揄され、大学は「レジャーランド化」が批判されていた。「オールナイトフジ」が83年に始まり、東京の女子大生は女子大生というだけでテレビやメディアに持て囃された。一方で同じ頃、林真理子が「ルンルンを買っておうちに帰ろう」でデビュー(82年)。読んだが、時代に取り残されたような地方出身の「貧乏ブス女子大生」の自虐ネタとしか思えず、笑えなかった。
 私のような地方出身の大学生は金もないので、ろくに大学にも行かずにアルバイトに精を出し、サークルで週1回は近隣の女子大生たちとテニスに興じ、週末には流行りの洋楽や六本木界隈に詳しかった高校時代の旧友(その後、彼は大学を中退して「マハラジャ」の黒服になった。ちなみに彼はその後、「サンシャイン60」の高級中華料理店のウエイター等を経て、今では某有名外食チェーンの役員だが、今でも時々飲む)に連れられ、六本木のディスコや西麻布のカフェバー通いをしていた時期もある。当時はデュラン・デュラン、カルチャークラブ、デビッド・ボウイらのユーロビートが大流行。デザイナーズ・ブランドは高くて手が届かず、安いコピー服や中古服を買い漁った。
 一方、大学の友人から70年代の名車「いすゞ117クーペ」を5万円で譲り受け、アパートに近かった中野のバイト先のオーナーが所有する敷地にタダで駐車させてもらい、大学へも愛車で通学していた時期もあった。当時は都心の大学近くに日中無料で置いておける穴場駐車場もあった。ただ、女の子を助手席に乗せる僥倖は殆どなかった。良くも悪くも今から思えばまだおおらかで、若者も背伸びができるいい時代だった。日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持ち上げられ、ワンルームマンションが建設ラッシュ。バブルへと向かっていた時代だった。若者は別に大学に行かなくても、就職もしなくても、何をしても生きてはいける、という将来を楽観できる漠然としたムードがあった。就活も大学生の売り手市場で、内定をいくつも取る学生は珍しくもなかった。
 「貧乏学生」とは言っても多い時には学費の他に月12~15万円の仕送りを親から受け、夜のバイトで多い時期には月20万円以上稼ぎ、留学費用にと貯金できたくらいだったから、今から思えば恵まれていた。でも、そんな生活は大学2年の後期になる頃には既に飽きてしまっていた。遊び過ぎたせいで2年の後期頃には大学の単位不足という現実問題が迫ったこともあるが、中途半端な遊びは大して楽しくもないことも知った。私のモラトリアム期間は終わった。
 その頃には必然的に村上春樹は卒業していた。大学へもいつも新聞や読みかけの本をバッグに入れて真面目に通い、硬めの本を読むようになった。吉本隆明や丸山真男も少しかぶれて齧ったが、正直あまりピンとはこなかった。
 それ以降は本多勝一や大森実、筑紫哲也、鳥越俊太郎、一ノ瀬 泰造、石川文洋らジャーナリストの書いた評論、ルポルタージュ、ノンフィクションをよく読むようになっていた。春樹については「思春期のはしかのようなもの」「そもそもあんなに根暗でナイーブで理屈っぽい若者が現実にそんなにモテるはずがない」などと嘯くようになっていった。
 春樹がナイーブな若者のバイブル的存在であることは今も変わらないのだろうか。大ヒットした『1Q84』も読んでいない(もう読む気になれない)が、最近の『騎士団長殺し』はフィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー」へのオマージュだと誰かが書いていた。だとすれば、春樹はあくまで流麗な文学表現やドラマ性を追求している小説家に過ぎないだろう。そもそも小説とはその程度のものだと切り捨ててしまえば身も蓋もないが。
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「アンパンマン」に込められた反戦リベラリズム

Posted by fukutyonzoku on 09.2014 日記 2 comments 0 trackback
NHKスペシャル「みんなの夢まもるため~やなせたかし"アンパンマン人生"~」はなかなか感動的な内容だった。
まずはNHKのホームページに掲載されている番組紹介の再掲します。
http://www.nhk.or.jp/special/sp/detail/2014/0105/
国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親、やなせたかしが94歳の生涯を閉じた。アンパンでできた顔を弱った人に食べさせる可愛いヒーローは、幼児向けの作品だと思われがちだが、その底流には、絶望の連続だったやなせの人生が色濃く投影されている。若き日の過酷な戦争体験。長くヒットに恵まれず苦悩した日々。妻を襲った不治の病…。やなせが作詞したアンパンマンのテーマには「なんのために生まれて なにをして生きるのか」「そうだうれしいんだ生きるよろこび たとえ胸の傷が痛んでも」等々、深い人生哲学が込められている。そしてその曲は、東日本大震災の被災地でも繰り返しリクエストされ、いまも多くの人びとの心をとらえつづけているのだ。番組では、やなせたかしの“希望の種”とも言える遺伝子を受け継いだ、著名な漫画家やミュージシャン、俳優、そして市井の人びとを通して、やなせが遺したメッセージをひも解いていく。やなせと同郷の漫画家・西原理恵子や戦争世代の盟友・ちばてつやらが、やなせの知られざる創作の跡をたどりながら、その遺したものを漫画で表現すれば、やなせの絵本で育ったミュージシャン・一青窈は、アンパンマンのテーマをまったく新しいアレンジで歌い上げる。やなせが波乱の人生の最期にたどり着いた「生きる意味」を、深い余韻の中でかみしめながら、新しい年を生きる力にしたい。(NHKホームページから)

個人的にもアンパンマンのテレビアニメは娘が幼児期に大好きだったので、よく一緒に見た。主題歌「アンパンマンのマーチ」は、当時はやなせさん自身が作詞したことは知らなかったが、その哲学的な歌詞と三木たかし作曲の心地よくも力強いマーチに、いつも心を鷲掴みにされ、時に涙ぐんでしまうほどだった。それほど力のある歌だ。
この番組を見て、その謎が少し解けた気がした。やはり、そうだったのか。この歌詞は子供だけでなく、現代の大人たちへの強烈なメッセージソングだったのだ。

やなせさんは4歳の時に父が病死。母は再婚し、やなせさんは幼い弟とともに親戚に引き取られた。その弟はその後、京都帝大に入学、自慢の弟だったというが、特攻隊員として22歳の若さで戦地に散った。
やなせさん自身も戦地に送られ、多くの戦友が戦死。戦地で軍は「長期戦になるから食糧を節約せよ」と。兵站が底をつき、野草やたんぽぽの根まで食べて飢えを凌いだ。「正義の戦争というが、まずは飢えている仲間を食べさせるのが正義ではないか。その思いがアンパンマンにつながった」と後に書いている。
お腹が空いた子供、泣いている子供がいれば、アンパンマンは自分の顔をちぎって食べさせる。たとえ自分は弱って敵にやられても…。正義を振りかざして勇ましく敵をやっつけることは本当の正義なんかじゃない。弱くて格好悪くても、時には自分が犠牲になってでもみんなの暮らしや平和を守ること、それこそが本当の正義なのだと…。政治や外交の世界にも通じそうな反戦リベラリズムではないか。

♪なんのために生まれて
なにをして生きるのか
答えられないなんて
そんなのは嫌だ


やなせさんより世代は下だが、やはり
戦争世代のちばてつやさんは「戦争で生き残った人間が共通して背負い続ける、重い問いかけです」と語る。

主題歌でアンパンマンが守ろうとする「みんな夢」とはなんだろう。
「成功という意味の夢ではなく、この世界の平和度がちょっと上がるとか、不幸さがちょっと下がる、それがやなせ氏のいう『夢』ではないか」
東日本大震災の後、やなせさんのポスターに励まされたという陸前高田出身の漫画家、吉田戦車さんは、番組の中でそう語る。

アンパンマンが大ヒットしてやなせさんが漫画家として世に出たのは、ようやく69歳になってから。アンパンマンを描き始めてから20年も経っていた。漫画家としての人生も決して平坦ではなかった。

♪今を生きることで
熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで
そうだ、嬉しいんだ
生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも


やなせさんとは同郷で、可愛がられた「毎日かあさん」の西原理恵子さんは、「人生には悲しくて辛いことがたくさんあるけど、それでも希望を捨てずに前向きに明るく笑って生きていけば、悲しみは必ず希望に変えられるという人生賛歌です」と語る。
妻に先立たれたやなせさんの良き相談相手だったという里中満智子さんも
「やなせ先生自身は実は涙も流しているし、心も傷ついている。でもそれは見せないようにして、何のために生きるのか、それがわからないうちは死んじゃったらつまらないじゃないか。だから生きるって素敵なことだよ、って」。

大震災の直後から、被災地のラジオ局に「子供たちが安心するように」と「アンパンマンのマーチ」にリクエストが殺到。しかし、むしろ励まされたのは、大人たちだった。
「歌を聴いて涙が止まらなかった」「命を語るエネルギーを感じました」
「こんな歌詞だったのか。元気が出ました。ありがとう」
このことを聞いたやなせさんは、当時92歳。入退院を繰り返していたが、被災地のためにアンパンマンのポスターやイラストを描き続け、被災地に届けた。
ポスターには「ああ、アンパンマン やさしい君は、いけ、みんなの夢まもるため」と主題歌の歌詞の一節が大きく書かれている。
被災地の支援に向かった自衛隊員は「実は、私たちは本当に被災者のみなさんの役に立っているのだろうか、と悶々としていました。あのポスターをみるまでは」と。やなせさんにポスターを依頼、隊の休憩所などに貼ったという。

津波で工場を失い、廃業を考えていた醤油醸造メーカー社長は「それまで私は被災者で、やってもらう側だった。しかし、やなせ先生のイラストをみて考えが変わった。地域のために自分ができることは何かと」。
被災を免れた他社の施設を間借りし、製造を再開。地元で長年愛されてきた醤油を仮設住宅などに届けている。

関東有数のパワースポット香取神宮を参詣

Posted by fukutyonzoku on 14.2013 日記 0 comments 0 trackback

朱塗りの大鳥居(二の鳥居)。鳥居の中に白龍の顔が見える?


昨日10月12日(土)、千葉県香取市(2006年の市町村合併までは佐原市)にある香取神宮を参詣した。

明治期前からの「神宮」格は伊勢・鹿島・香取のみ

香取神宮の旧社格は官幣大社で、関東地方を中心に全国に約400社ある香取神社の総本社。今年の初詣で参拝した茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、同県神栖市の息栖神社とともに「東国三社」の一社だが、いずれも利根川下流域に位置し、三社は大地に直角二等辺三角形を描く形に位置している。香取神宮本殿からみて鹿島神宮本殿はほぼ正確に北東約13㎞に位置し、息栖神社本殿は香取神宮本殿からほぼ正確に東約8㎞にある。
宮中の「四方拝」で遥拝される一社という格式の高い神社である。古くから国家鎮護の神として皇室からの崇敬が篤く、明治期以前からの「神宮」の称号は全国で伊勢・香取・鹿島の3社のみ。初詣には50万人以上が参拝する関東有数の「パワースポット」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/香取神宮


総門

詳しい由緒は省略するが、御祭神は鹿島神宮の御祭神と一緒に国を武威で平定したとされ、ともに古来より軍神としての性格が強い。武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。
鹿島神宮と香取神宮はともに同じような「要石」(香取が凸型、鹿島が凹型)がある。江戸期に水戸光圀が掘削を命じたが、いくら掘っても掘り出せなかったという。二つの要石は地中深くで繋がっており、地震を起こす大ナマズを押さえつけているとされている。


また、出雲の国の支配権を巡って力自慢の鹿島の祭神と出雲の神の次男が力比べをした(鹿島大明神の勝利)のが相撲の起源とも言われている。


珍しい檜皮葺き屋根と黒漆塗りの本殿。正面の拝殿は檜皮葺き屋根の葺き替え工事中だった

また、境内には水戸光圀が植えたとされる「黄門桜」や大正天皇による手植え松、(昭和?)天皇皇后両陛下参詣記念碑のほか退役した海上自衛隊練習艦「かとり」の錨も奉納されており、由緒ある神社であることが伺える。
http://www.katori-jingu.or.jp/goyuisyo.htm
http://touch.allabout.co.jp/gm/gc/303251/3/


拝殿前の御神木。樹齢千年余り、周径7.4㍍


拝殿前の朱塗りの楼門。掲額の「香取神宮」の文字は東郷平八郎元帥の筆


香取神宮の御朱印。最近は有名な神社仏閣の朱印を集めるのがすっかり趣味に

「関東最強のパワースポット」三峯神社を参拝

Posted by fukutyonzoku on 29.2013 日記 0 comments 0 trackback


オオカミ信仰

奥秩父の標高1100㍍の三峰山中にある三峯神社を参拝してきました。ここは自然の“気”溢れる「関東最強のパワースポット」として評判で、「お犬さま(オオカミ)」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰でも有名。毎日神職がお犬さまにお供えをしているが、翌日には綺麗になくなっているという。「お犬さまが召し上がりになっている」からだそうだ。


マイカーで関越自動車道・花園ICで降り、さらに1時間近く。途中、有料道路(410円)を抜けて、三峰山の曲がりくねった山道を駆け上がる。山頂近くまでくると、まだ色は淡いが、黄葉が既に始まっていた。本格的な紅葉は10月下旬が見ごろだそうだ。
三峯神社専用の有料駐車場(500円)に到着。そこから徒歩で10分ほど登ると、珍しい「三ツ鳥居」が姿を現した。


龍神様に失礼にならぬよう、脇をそっと抜け、参道を歩くと、左手に赤色が鮮やかな「随身門」が見えてきた。これは江戸時代までは仁王門だったそうで、神仏合祀の名残が伺える。


仁王門を抜けて緩い坂道を下ると、間もなく本殿に到着。朱色をベースとした極彩色の装飾は日光東照宮を彷彿とさせ、かつてここが日光系の修験道場だったことを偲ばせる。




三峯神社の歴史

三峯神社は約1800年前、日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの国の平和と人々の幸せを祈り、国生みの神、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)をお祀りしたのが始まりとされ、そのお使いが「お犬様」。日本武尊の道案内をし、その勇猛、忠実さから同社の使い神に定められたと伝えられている。
http://www.mitsuminejinja.or.jp/kitou/index.htm

歴史的には日光系の修験道場だったこともあり、一時は足利氏により社領を奪われ、衰退したが、文亀年間(1501年-1504年)に修験者の月観道満により堂舍が再興され、以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされた。本堂を「観音院高雲寺」と称し「三峯大権現」と呼ばれた。
江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、御眷属信仰が流行ったという。
修験者たちが同社の神得を説いて回り、同社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織されたとも。
明治の神仏分離により寺院を廃して「三峯神社」に改称された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三峯神社

ご神木と赤い目の龍神

お参りしてからおみくじ(200円~)を引き、御朱印を頂き(300円)、お札(500円~)やお守り(300円~)を求めてから社殿正面の両脇に立つご神木に掌をつけ、霊気をたっぷり吸収する。




後で知ったのだが、本殿前の石畳に水をかけると、赤い目の龍神の姿(全長約50cm)が現れるとのこと。これを逃したのは残念!
社殿の脇には、伊勢神宮や出雲大社、橿原神宮、鹿島神宮、厳島神社など全国の有名な神社を分祀した祠が十数社並んでいる。それを順番に全て参拝。各宮社に行ってお参りしたのと同じ顕現があるというから、何だか得した気分にw
本殿を離れ、随身門を抜けて真っ直ぐ階段を上っていくと「奥宮遥拝殿(ようはいでん)」という展望台に着く。ここは単なる絶景スポットではなく、隣の山である妙法ヶ丘の山頂にある「奥宮」を参拝するための拝殿。ここでも参拝。


奥宮遙拝殿の脇から、今は登山道になっているかつての「表参道」の下山口があるのだが、驚きの立看板を発見…。


たくさんいい気を吸収したのに加え、憑き物が落ちたようなスッキリした感じで帰路に。山の麓にあった蕎麦屋に立ち寄り、秩父の蕎麦と鮎の塩焼きを堪能した。


三峯神社の御朱印

「伝説の居酒屋」岸田屋探訪記

Posted by fukutyonzoku on 09.2013 日記 3 comments 0 trackback


元祖グルメ漫画「美味しんぼ」のコミックス第1巻にも登場する東京・月島の居酒屋「岸田屋」の暖簾を初めて潜ってみた。「居酒屋大全」などの居酒屋関連の著書が多数あるグラフィックデザイナーにして「居酒屋評論家」の太田和彦氏は、この店を「日本三大居酒屋」の筆頭に挙げ、さらにこの店の牛もつ煮込みは「東京三大煮込み」あるいは「東京五大煮込み」にエントリーされているほどの逸品。「美味しんぼ」では、山岡にこの店に連れてこられたフレンチのミシュラン三ツ星シェフが牛もつ煮込みの美味さに驚愕する、というストーリーだ。「日本三大居酒屋」のうち東日本はここだけなので、「伝説の居酒屋」と言って過言ではないだろう。「食べログ」の口コミは200件を超え、平均評価点4.17という高評価の居酒屋なのだ。
http://s.tabelog.com/tokyo/A1313/A131302/13002239/

店は通称・もんじゃストリートの一番奥、4番街にあるが、当然ながらいつも行列ができている。当方はこの日19時前に店に到着。金曜日の夜とあってか既に店内は満席。屋外にも店側が用意した並び席に2組計4人がすでに着席し、店内の席が空くのを待っており、やはりお店が用意した膝掛け用毛布を膝に掛けて寒さを凌いでいた。

私の右横の並び席も徐々に人で埋まっていったが、間もなく、私のすぐ前の若い男2人組が、寒さに耐えかねたのか待つのを諦めて列を離れたこともあり、30分ほどで入れた。


熱燗と「噂の」牛もつ煮込み

■店内は狭く、昭和レトロの雰囲気

店内の造作は、客同士が向き合うコの字形のカウンターがメーンで、20人も入れば一杯になる。当方はカウンターの角の席に案内された。冷えた身体を温めるにはやはり熱燗。銘柄はいくつかあったが、実は熱燗は安い酒ほどうまいので、一番安い松竹梅にした。熱燗に酒の肴はもちろん「東京三大煮込み」の一角とされる牛もつ煮込み。それから肉豆腐(半分)。かなりボリュームがあるので一人なら半分がちょうどよい。その他、鮭ハラス焼、〆に鰯つみれ汁で計2230円はお得。昭和レトロの雰囲気で、厨房からコの字形カウンターの間に伸びる通路は幅1㍍程度しかなく、客の会話は他の客にほぼ聞こえてしまう距離感。接客は女将さんと娘さんら若い女性二人で、みな愛想がよい。女将さんは人柄が抜群に良く、まさに下町のお母さんといった体。実の娘さんがここの看板娘で、なかなかの美人。彼女が噂の「月島のジャンヌ・ダルク」(太田和彦氏)か…。

■牛もつ煮込みだけではない


肉豆腐


鮭ハラス焼


鰯つみれ吸物

肉豆腐は半分でもボリューム満点。鮭ハラス焼は切り身の串焼きが2切れ、これは表面のカリカリ具合と中身の脂の乗りのバランスが抜群で、旨い! これがこの日食べたツマミの中で一番だった。鰯のつみれ汁もまあまあよい。
肝心の牛もつ煮込みの味は正直、期待したほどではなかった。勿論まずくはないが、スタンダードな味といったところ。個人的にはこれを食べるためだけにここに通うというほどのものではないと思う。
同じく「東京三大煮込み」に列せられている北千住の「大はし」にも以前入ってみたが、私の好みからは少し甘すぎて、やや期待外れだった。
ラーメン屋もそうだが、期待し過ぎていくと裏切られることが多い。厨房を仕切っていたオヤジさんが亡くなってから味が落ちたとも聞くが、当方はこの日が初めてだったので、以前とは比較のしようがない。

ちなみに、これまで私が食べたもつ煮込みの中で一番うまいと思ったのは、常磐自動車道柏インター傍、国道16号沿いのもつ煮定食屋「うわさの太郎」のもつ煮込み。ただし、夜はすぐにモツが売り切れて閉店するので要注意だ。

東京にうまいラーメン屋がない理由

ラーメン屋も東京の有名店はほぼ試しているが、最近評判だという店はミックススープなどで技巧に走り過ぎていて、基本を疎かにしている感が強く、正直うまい店が少ない。恐らく水が悪いせいだろう。スープには他所から取り寄せた水を使ってる店もあるようだが、実はスープの水だけでなく茹で水も決定的に重要。茹で水まで取り寄せた水を使えばコスト的に合わないため、茹で水まで取り寄せた水を使っている店はおそらくないだろう。米を炊く際も同じなのだが、乾いた米や麺が最初に吸い込む水は味を決める上で決定的に重要なのだ。地方の特に米どころで食べるご飯は、なぜこんなに上手いのかと不思議に思った経験はないだろうか。そんなに高い米ではなく、炊飯器もごく普通であるにもかかわらず、だ。それは水の違いであることが多い。

若い勘違いカップル

岸田屋に話を戻すと、私の席の両隣は
どちらも若いカップルだった。そのうちの一組は今風のお洒落なカップルで、二人とも狭いカウンターに腰を降ろしている間中、帽子を被ったままで、女性の方はスマホでゲームをしていた。ここは「和民」ではないのだ。外にはまだ寒さを堪えて順番待ちをしている客も大勢いるのだ。場の空気を察することができず、場の空気を楽しもうともしない若造どもが物見遊山に押し寄せるようでは、残念ながらある種の観光スポットに成り下がっていると言わざるを得ない。もし、いつでもフラっと入れて、この料理にこの値段なら間違いなくいい店だろうけれど。さらには「月島のジャンヌ・ダルク」とゆっくり会話でもできれば、通い詰めることは間違いないのだが…。

(注)この項の写真は全て「食べログ」から拝借しました。