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「ボヘミアン・ラプソディ」とフレディ・マーキュリーの真実

Posted by fukutyonzoku on 29.2018 映画 0 comments 0 trackback


映画のタイトルにもなった「ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)」は1975年10月31日にリリースされ、9週連続全英1位を記録したクイーンの大ヒット曲だ。作詞・作曲はフレディ・マーキュリー。世界初の本格的なプロモーションビデオが制作された楽曲としても有名で、「ライブ・エイド」でも最初に演奏(バラードパートだけのライブバージョン)された。

なぜ、映画のタイトルになったのか。クイーンの出世作かつ最大のヒット曲だから、ということは勿論あるだろうし、映画の中でも、この曲の発売前にEMIレコードの重役(架空の人物)が「6分なんて長過ぎてラジオはかけてくれない」と反対される場面が出てくるということもある。
しかし、重要なポイントはそのタイトルと歌詞にあるのだと思う。

「ラプソディ」は「狂詩曲」と訳され、「即興的な楽想の自由形式の器楽曲」などと解説されているが、要は、異なる曲調を組み合わせてつくる楽曲を指す場合が多い。「ボヘミアン・ラプソディ」の場合はアカペラ、バラード、オペラ、ハードロックが6分と長めの曲の中にメドレーで組み合わされている。

重要なのは「ボヘミアン」。ボヘミアンはボヘミア人の意で、元々は現在のチェコにあるボヘミア地方に住んでいた遊牧民を指すが、フランスなどに流入した貧しい東欧からの移民の総称となり、「ジプシー(ロマ)」とも呼ばれた。19世紀以降は、転じて、自由奔放な生き方をする芸術家や哲学者、それを気取る若者などを指すようになり、悪い意味では、定職がなく貧乏で、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない、といった含意がある。
つまり、このタイトルの「Bohemian」とは、おそらくフレディが自身を喩えて言っているのだ。

実際、彼の一族のルーツは遊牧民だったペルシャ(現イラン)人だし、彼は英保護領だったザンジバル島(タンザニア領)生まれ、インド育ち、前年に家族で戻ったザンジバルで起こった革命を逃れて17歳で英国に移住した移民だ。つまり、彼の生い立ちは、安住の地が定まらないジプシーのようなものだった。

幻想的な歌詞も、人種、宗教、家族関係、セクシャリティー(バイセクシャルorゲイ)と、あらゆる面で「マイノリティーの塊」のような彼が、差別や偏見と闘ってきた人生の苦悩を叫んでいるように思えてくる。

彼の生い立ちは非常に複雑だ。
彼の血筋は、10世紀にペルシャで勢力を拡大したムスリムの迫害を受けてインドに逃れたゾロアスター教徒のペルシャ系インド人(パールシー)。ちなみにインド有数の財閥となったタタ一族も彼と同じパールシーだ。
フレディの父は戦前、インドの英植民地政府オフィスの会計係として働いた。両親は仕事の関係で英保護領たったザンジバル島に移り、戦後間もない1946年9月にフレディ(本名=ファルーク・バルサラ)が生まれた。ただ、幼い頃に一家はインドに戻り、フレディは幼少期の大半をインドで過ごした。7歳でピアノを習い始め、8歳でボンベイ(現ムンバイ)郊外にあった全寮制の英国式寄宿学校に入る。16(17?)歳で家族と再びザンジバルに戻るが、翌年革命が起こり、一家は安全上の理由で英本国へ逃れた。

「ボヘミアン・ラプソディ 」の歌詞に戻る(和訳は筆者訳)

“Mama, just killed a man~”
ママ。たった今、男を殺した


から始まるバラードパートの歌詞。いろいろな解釈があり得るが、私の勝手な解釈では、実際の殺人事件とは関係ない。殺した“a man”とは彼の父親のことを暗示しているのではないか。彼は父親とは折り合いが悪かったようだが、実在の父というよりは、「父親」に象徴される保守的な価値観やパールシーの伝統的宗教倫理からの離脱、決別を意味しているように思えるのだ。
それは、主として、自分がゲイ(orバイセクシャル)ではないかというセクシャリティーの自覚によるものだろう。この曲を作った頃は、ちょうどフレディがゲイを自覚し始めた頃だと言われている。

“Mama, Didn't mean to make you cry
ママを泣かせるつもりはなかった

If I'm not back again this time tomorrow
もし明日のいま頃に僕が(普通の男に?)戻らなくても

Carry on, carry on, as if nothing really matters
何事もなかったようにいつも通りにしてて(悲しまないで)--と。

Too late, my time has come
もう遅い。僕の時が来た

Sends shivers down my spine
体中を震えが走る

Body's aching all the time
体中の痛みが止まらない

Goodbye everybody - I've got to go
さようなら、みんな。僕はもう行かなくちゃ

Gotta leave you all behind and face the truth
みんなの元を離れ、真実と向かい合うよ

Mama, ooo - I don't want to die
ママ、僕は死にたくない

I sometimes wish I'd never been born at all
生まれてこなきゃよかったって時々思うんだ



これから「向かい合う」と宣言している「真実」とは、自分の本来のセクシャリティーのことだろう。気付いてしまった以上、もう後戻りできない。怖いけど、みんなの元を離れ、本当の自分と向き合って生きていくよ--。

フレディがこの詩は書いた時期はおそらくまだエイズには感染していないし、その自覚もなかったはずだが、なぜか自分の死を予言していたと解釈すると、驚くほどピッタリ嵌る。

「身体中が震え、痛みが止まらない」
「さようなら、みんな。僕はもう行かなくちゃ」

映画では、「ライブエイド」出演直前に自らのエイズ感染を知った、という設定にしたことで、映画のクライマックスでフレディが歌う「ボヘミアン・ラプソディ」は、エイズによる自らの死を予言しているかのような歌詞に聞こえてしまうのだ。それが余計に涙を誘うという、非常に効果的な「演出」となっている。

(参考記事)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フレディ・マーキュリー
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ボヘミアン・ラプソディ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ボヘミアニズム
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%98%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%97%E3%82%BD%E3%83%87%E3%82%A3
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-116.html
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【ネタバレ注意】「ボヘミアン・ラプソディ」はアリか

Posted by fukutyonzoku on 26.2018 映画 0 comments 0 trackback


話題の映画「ボヘミアン・ラプソディ」をクリスマスに観た。英国発の世界的人気ロックバンド「Queen」の自伝的映画だが、実話とは少し違うらしいと事前に小耳に挟んでいた。だが、それ以上の予備知識は入れず、純粋に映画作品として楽しもうと思っていた。そのお陰もあってか、素直に感動して泣けた。

主役はQueenのボーカル、フレディ・マーキュリーを演じた俳優ラミ・マレック。正直、本物のフレディにあまり似ているとは思わなかった。しかし、体はフレディそっくりに鍛え上げており、独特の訛りのある英語(世評では似ていたらしい)、フレディ自身がコンプレックスを持っていたという出っ歯を強調するために恐らく上歯と唇の間に詰め物、表情はそれほど似ていないが、ステージでの動き方もよく再現できていた。YouTubeで実際のライブエイドでのQueenのパフォーマンスと映画のライブエイドの場面を並べて比較した動画を偶然見つけたが、よくコピーできているのがわかる。
https://youtu.be/-XqPBEODZ4s

少し残念だったのは、フレディの目の色はマレック本来の青いまま。黒いカラーコンタクトをするだけで簡単に解決したはずなのに、なぜそれをしなかったのかが不思議だ。
もう一つ、Queenメンバー、中でもフレディは大の日本贔屓だった。それは最初にQueen人気に最初に火がついたが日本だったことがきっかけのようだが、フレディは美術学校でデザインを専攻していたこともあり、特に日本の美術に傾倒。お忍びで日本に来て京都や金沢、伊万里などを回って陶磁器や掛け軸、浮世絵などを買い集め、日本の骨董品については相当な目利きだったそうだ。自宅の庭も日本から庭師を呼んで日本庭園にしている。
Queenを早い時期から日本に紹介していた「ミュージック・ライフ」元編集長の東郷かおる子さんによると、Queenは日本からのオファーには極めて寛容だったらしく、そのせいで日本ではパロディー風の変なCMにも出演していたのだろう。映画では、部屋の装飾や部屋着など親日家ぶりをそれとなく匂わせるシーンも織り交ぜてあったものの、もう少し最初の武道館公演の熱狂ぶりやフレディの「日本愛」を描いてほしかったというのが、一日本人として少し残念だった部分だ。

映画を観た後に調べてみたが、やはり実話と違う点は多々あるようだ。私自身はそれほどのQueenファンではないが、同時進行でファンだった人たちにとってはQueenへの再評価を喜ぶ反面、利用され裏切れたような複雑な思いを抱いた人も少なくないようだ。予備知識をあまり持たずに映画を見ればドキュメンタリー映画に見え、知られざるQueenの内幕を理解したような気になるが、実際には実話と虚構が入り混じったドキュメンタリー的フィクションなのだ。
事実と異なる点は、デビューまでの経緯や登場人物の描写など細かい点もたくさんあるようだが、何よりストーリーの核となる部分に虚構や時系列の組み替えがある。
映画では、フレディがほかのメンバーを裏切り、400万㌦の契約金でグループから独立してソロ・アーティストとなったのを機にQueenは解散してしまう。しかし、ソロとなったフレディはアフリカ難民支援チャリティーコンサート「LIVE AID(ライブ・エイド)」の主催者からQueenに出演オファーがあったことをマネジャーが知らせなかったことに激怒。マネージャーをクビにして再びQueenのメンバーの元に戻る。この少し前にフレディは吐血し、密かに検査して自らのエイズ(HIV)感染を知る。フレディはメンバーに自らのエイズ感染を告白。再び「ファミリー」としての結束を取り戻し、Queenを「再結成」。フレディは喉の調子の悪さを押して1週間後のライブ・エイドに向けて練習を再開。そして、Queenは10万人の観客で埋め尽くされたウェンブリースタジアムの舞台に立ち、世界が絶賛した圧巻のパフォーマンスを披露する--。
今、こうして文字を書き起こすだけでも泣けてくるストーリーだ。

しかし、事実は違う。
クイーンには確かに解散の危機があったし、1982~83年には活動を一時休止し、メンバーがそれぞれソロ活動をしたり充電したりしていた。とはいえメンバーが一時的にも「脱退」したりQueenが「解散」したりした事実はない。また、ソロ活動を最初に始めたのはフレディではなく、ドラムスのロジャー・テイラーだ。
さらには、ライブ・エイドが開催されたのは1985年7月13日。実際にフレディが自身のエイズ感染を知ったのは86~87年頃だろうと推測されている。つまり、ライブ・エイドより後なのだ。
フレディがロンドンハーレー街の診療所でHIVの血液検査を受けたと初めてメディアに報道されたのは86年10月。その後もメディアには何度も「エイズ疑惑」を書き立てられたが、本人は否定し続けた。
フレディのパートナーだったジム・ハットンによると、フレディ本人は87年4月には感染を認識していたという。いずれにしてもライブエイド前にHIV感染をメンバーに告白した事実はないようだ。

また、映画ではフレディの「独立」後にQueenは解散し、しばらく疎遠になっていたメンバーが再結集。1週間の練習期間でライブ・エイドに臨む--というストーリーだが、実際にはQueenは83年後半からアルバム制作に入り、翌84年2月に「THE WORKS」をリリース。同年8月から欧州各国、ボツワナ、ブラジル、豪州、ニュージーランドなどを回るワールド・ツアーを開催。ライブ・エイド約2カ月前の85年5月には最終ツアー地の日本で演奏していた。つまり、ライブ・エイドは「Queenの再結成」でもなければ、久しぶりの演奏でもなかったのだ。
ただし、このワールドツアーは、詳細は割愛するが、さまざまなトラブルに見舞われ、商業的にも内容的にも「成功」からはほど遠く、メンバーがバラバラになりかけていたのは事実のようだ。あるメンバーは「ライブ・エイドがなかったら解散していたかもしれない」と語っている。Queenが「復活」を賭けてライブ・エイドの20分のパフォーマンスに全力を注いだことは嘘ではないのだ。公演後、フレディは「当時、Queenは過去のバンドと見られていた。過去のバンドではないことを15億人の前で証明したかった」とも語っていたという。
つまり、この映画は、事実と「事実に近い嘘」を巧みに組み合わせることで、クライマックスのライブ・エイド演奏をより劇的に仕立て上げる「演出」が施されているのである。

映画作品としてみれば、クイーンのヒットメドレーを堪能(映画に出てくる楽曲は全てクイーンのオリジナル音源)できるし、ヒューマンストーリーとしてもよくできている。特定できる個人を貶めるような描き方もしていないので、「あり」ではないかと思う。製作者や元Queenメンバー、関係者らは「全てが実話ではない」としながらも「だからといってフレディやクイーンの本質から外れているとも思わない」と異口同音に語っていることからも、当事者らが許容している演出であることがわかる。

シェークスピアや近松門左衛門の例をひくまでもなく、史実や先代作品に少し脚色を加え、その少しの翻案に天才的オリジナリティーを発揮するのが古今東西の名劇作家の真骨頂でもある。司馬遼太郎しかり。しかし、史実とは分ける必要がある。史実より影響力がある点で、ある意味罪深い。

巧妙な「演出」にまんまと嵌められ、泣かされた、といったところだろうか。

(参考記事)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フレディ・マーキュリー
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29421/1/1/1
https://torukuma.com/bohemian-difference/
https://chielabo.com/bohemian-rhapsody-true-story/
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181203-00552657-shincho-ent&p=1

「万引き家族」は現代の蟹工船か

Posted by fukutyonzoku on 13.2018 映画 0 comments 0 trackback


今年のカンヌ国際映画祭でばパルムドール(最高賞)を受賞した「万引き家族」をようやくみた。

安藤さくらの存在感は見事としか言いようがない。冴えないおばさんにしか見えない時もあれば、少女のように可愛らしさを見せる時も。かと思えば、艶めかしい大人の女に豹変し、時に神々しくさえ見える。あの七変化がまさに「女優」だ。カンヌ国際映画祭審査委員長のケイト・ブランシェットは「安藤サクラの泣きの芝居は素晴らしかった。これから私たち俳優が泣くシーンがあったら彼女の真似をしたと思って」と絶賛している。

リリー・フランキーがダメ男を実にナチュラルに演じているのも見事。松岡茉優は持ち前の器用さを遺憾なく発揮している。そして、定評のある子役の演技の素晴らしさは今回も同様で、是枝作品の面目躍如といったところ。

この映画は、子供にも万引きを教えていた窃盗の常習犯や、亡くなった親を庭に埋めて死亡届けを出さずに年金を不正受給していた事件など、実際に日本で起こったいくつかの実話を基に是枝監督が脚本を書いている。映画製作にあたって是枝監督は養護施設などを実際に取材したそうだ。つまり、このストーリーは今の日本社会の実像を描いたドキュメンタリーに近い作品と言っていい。
映画に登場するのはダメな大人ばかりで、この「家族」の行いは犯罪のオンパレード。それでも「少し不器用で運が悪かっただけの愛情深い『普通』の人々」と共感できるよう、必ずしも血の繋がらない「家族」の絆やヒューマニティーを巧みに描いている。

是枝監督のメッセージをあえて言語化するとすれば、こんなふうではないか。

常識の世界や家族の方がむしろ嘘と虚飾に満ち、この「家族」こそが本当の家族の姿ではないのか……。
メディアや世間は犯罪者を表面的に叩き、排除するだけで、それ以上は見ようとしない。つまりはそこで「情報処理」が終わってしまい、人が犯罪に追い込まれる社会背景を考えようとはしない。でも、これは現実に私たちのすぐ身近で実際に起こっている現実なのだ。その最大の犠牲者は子供たちである。「自己責任」という一見尤もらしい呪文で心に蓋をし、見えないふりをするのはもうやめにしないか……。
置き去りにされている隣人や弱者への共感と互助を忘れ、静かに進む格差社会の実態を丁寧に描いた、洗練された現代の「蟹工船」だろう。

イーストウッド監督「硫黄島」2連作

Posted by fukutyonzoku on 29.2012 映画 0 comments 1 trackback
遅ればせながら「父親たちの星条旗」「硫黄島(いおうじま)からの手紙」を続けてみた。いずれもクリント・イーストウッド監督の作品で、太平洋戦争後期の再激戦として有名な「硫黄島の戦い」を、前者がアメリカ側の視点から、後者が日本側の視点から描いた作品。互いに「あわせ鏡」となる連作である。

興行的には必ずしも成功したとは言えないようだが、このあわせ鏡の手法で戦争を両当事者側から描くという斬新な試みは過去例がなく、その手法によって自ずと戦争の輪郭が複層的に浮かび上がってくる。イーストウッド監督は、日本側から描いた「硫黄島からの手紙」については当初、日本人監督を探したようだが、見つからず、結局自らメガホンをとった。しかし、結果的にはその方が良かったのではないか。見事に日米双方の対比を浮かび上がらせることに成功しているからだ。製作・公開時期が米国のイラク戦争と重なってもいる。イーストウッド監督の反戦への思いや映画への情熱、斬新な手法に改めて敬意を表したい。

1945年2~3月に行われた硫黄島の戦いは、日本軍2万129人(全軍の96%)が玉砕、米軍は2万8686人の戦死傷(戦死6,821人、戦傷2万1865人)した。太平洋戦争で米軍の損害が日本軍を上回った唯一の戦いだ。このため、指揮官の栗林忠道・陸軍中将は米国でも名高い。今では世界最強と謳われる米海兵隊は「我々は日本兵に学び強くなった」と公言するほどだ。摺鉢山に米軍海兵隊によって星条旗を掲げる際に撮った写真は、米バージニア州アーリントン国立墓地(米国の戦没者専用墓地)にある「合衆国海兵隊記念碑」のモデルになっている。

なお、硫黄島の現在の正式呼称は「いおうじま」ではなく「いおうとう」である。

「あわせ鏡の手法」で効果的だったシーンの一例として、捕虜に対する扱いがある。「父親たちの~」では、兵士たちの間で日本兵が捕虜と思しき敵を斬首する写真が「日本軍の捕虜になると、こうなる」という噂とともに広まり、兵士たちの間に戦慄が走る。一方、「硫黄島から~」では、戦前のロス五輪で乗馬障害競技金メダリストである西竹一男爵(バロン西)=陸軍中佐=が、捕虜の怪我の手当を衛生兵に命じる。流暢な英語で捕虜を慰め、部下の前で捕虜が携帯していた母親からの手紙を和訳して読み上げる。これを聞いた部下の清水は、アメリカ人も同じ人間なのだと悟る。
彼が所属する小隊がほぼ壊滅し、生き残った5~6人が相次いで手榴弾で自爆を図るが、清水は逃走して敵に投降。米軍の捕虜になれば食事が十分に与えられると噂で聞いていたが、捕虜の見張りを命じられた米兵が腹立ち紛れに清水ら二人の捕虜を狙撃し、清水は命を落とす…。
これは「米国は(常に)正義」「日本(敵)は極悪非道」という、米国が陥りがちな独善性に対するアンチテーゼであろう。

また「父親たち~」では、追い詰められて地下壕の中で手榴弾で自爆した後の兵士たちの無残な姿を米兵が発見するシーンとして描かれていた。これに対し「硫黄島から~」では、日本兵たちが相次ぎ手榴弾で自爆する生々しいシーンとして描いている。何人かの上官や戦友の自爆死を目の前で見た心優しき日本兵(メジャーリーガー斎藤隆が演じた)は、泣きじゃくりながら自爆死を遂げる。最後の一人となった前記清水が逃走するーー。これも「人間の感情を持たない狂気のサムライ」という、米国側に根強い日本兵に対する固定観念を覆すための効果的な描き方だ。

さらに「父親たち~」で新鮮だったのは、米国が実は戦費調達や硫黄島での夥しい兵士の犠牲により、かなり追い込まれていた点を強調していることである。そのため米国政府は多数の新聞の一面を飾った、摺鉢山で星条旗を掲げた写真と、そこに写っていた兵士たちを「英雄」に仕立て上げ、戦意高揚と「国債を買おうキャンペーン」に利用する。財務省幹部が「英雄」たちを自室に招き入れ、国債キャンペーンへの協力を単刀直入に要求。これに「英雄」の一人が「あの写真は星条旗を交換した時のもので、私は英雄ではない。こんなのは茶番だ」と抵抗。それを聞いた財務省幹部は激昂し「とにかく金がないんだ。次の国債募集で前3回分を上回る金を集めなければ、もう戦車も機関銃も弾丸も作れない。石油も買えないから戦闘機も飛ばない。君たちが戦場に戻る時は石を持っていけ! 今度の国債募集を成功させなければ、我々は日本の条件を全部のんで日本に許しを乞うしかなくなるんだ」と早口でまくし立てるシーンがある。「英雄」らが引っ張り回されたパーティーでは、三人組の女性歌手が「国債を買おう」と歌っていたのには笑わされた。

この脚本は「米国は圧倒的な国力差で日本に楽勝した」という日米双方にある誤解を解き、特に米国民に対し、「戦争に勝者などなく、双方が敗者である」という強烈なメッセージが込められている。当時の日本のGNP(国民総生産)は米国の24分の1。石油、鉄鋼などの戦略物質も大半を米国からの輸入に頼っていた。米国からの石油禁輸で日本はオランダ領インドネシアの石油に活路を見いだすしかなく、海上輸送路を絶たれれば最初から万事休すであった。資源保有量を含めて国力に差があったのは事実だが、それでも当時の日本は世界最大の海軍力を有していたし、(兵力の元となる)人口も米国は1億3000万人と日本の7000万人の2倍に満たなかった。米国にとっても決して最初から楽勝の戦争なんかじゃなく、末期には米国も相当の犠牲と戦費を払い、戦争の早期集結に必死だったのだ、と。

実は、もう10年以上前になるが、筆者は硫黄島を取材で訪れたことがある(次回に続く)。