国土交通省は、東京圏、大阪圏、名古屋圏の三大都市圏の主要路線・区間の混雑率
(注1)やそれらの「平均混雑率」の数値
(注2)を毎年公表している。
それによれば、東京圏の平均混雑率は、昭和50年(1975年)には221%あったが、輸送人員(乗客数)の伸びを上回る輸送力の増強に伴い、年々低下。ただ、輸送人員については、平成5年(1993年)をピークに減少に転じ、平成15年(2003年)頃からは輸送力増強も止まったことで、平均混雑率も171~170%とほぼ横ばいで推移。ただ、ここ数年は、団塊の世代の大量退職等に伴って輸送人員の減少が加速し、平均混雑率も漸減ながら減少傾向が強まっている。直近データの平成22年(2010年)には166%にまで低下した、とされている。
東京都の就業者数予測
(注3)などによれば、今後も都内の就業者は漸減傾向が続くというから、少なくとも表向きは混雑率も低下傾向が続く見通しとされているようだ。
実態から乖離 まず、そもそも「混雑率」とはどういった性質のもので、どう測定されているのだろうか?
詳しくは
注3、注4を見ていただきたいが、混雑率とは「混雑時の乗車率」のことで、特定路線の中で平日の最も混雑している時間帯・区間の1時間平均の乗車率(輸送人員÷輸送力)であると定義されている。ほとんどは朝7~8時台のラッシュ時間帯である。
しかし、そもそもこの混雑率の統計データは相当に怪しい。以下、その根拠を順を追って説明する。
まず、混雑率の数字そのものが、利用者の実感から大きくかけ離れている。平均値にするとわかりにくくなるので、例えば私が実際に利用している路線で直近の平成22年度データをみると、常磐線快速(松戸→北千住)が171%、緩行(亀有→綾瀬)が169%、地下鉄千代田線(町屋→西日暮里)が179%となっている。
注1の「混雑率の目安」をみると、180%は「折りたたむなど無理をすれば新聞を読める」、200%は「体がふれあい相当圧迫感はあるが、週刊誌程度ならなんとか読める」程度だという。ちなみに250%になると「電車がゆれるたびに体が斜めになって身動きができず、手も動かせない」。いわゆる「すし詰め」状態だ。平均混雑率150%(広げて楽に新聞を読める)以下が政策目標とされているのだが、東京圏の平均混雑率は166%まで低下してきているから、あと一歩という政策評価なのだろう。
しかし、この統計数値と実態の間には相当なズレがある。
例えば、常磐線や千代田線の朝のラッシュ時間帯は、いまだに例外なく「すし詰め」状態だ。ラッシュ時間帯で新聞が読めるなどという状態になった試しは皆無だ。携帯電話さえ開けないのが普通の状態である。平成8(1996)年ごろのデータ
(注5)をみると、220~240%のレベルとなっているが、平成17(2005)年に常磐線とほぼ並行して走るつくばエクスプレスが開業して以降も、実感としては混雑率は一向に緩和されていない。地価は下がり続けているが、マンション造成や戸建て分譲は続いており、沿線人口が減少しているとはとても思えない。データは未確認なのだが、それでももし常磐線利用者が本当に減っているのだとしたら、その分だけ列車本数や普通運賃の車両数を減らしているのではないかとの疑いが浮かぶ。また、朝の最混雑時ほどではないものの、帰宅時の下り列車にしても、夕方から終電までの間ずっと、新聞が読めるような状態になるのは各駅は亀有、快速なら松戸を過ぎてからようやくというのが実態である。
最近は各事業者とも収益増強策として朝のラッシュ時にも快速列車の中央の数両にわたってグリーン車両を連結させたり、特急列車などの相互乗り入れを積極化させている。その分、在来線の通勤・通学列車については輸送力を巧妙に落としているのではないか。
測定方法は「職員の目視」 また、そもそも混雑率は誰が測定しているかというと、国交省や外郭団体、あるいは第三者機関かと思いきや、そうではない。実は各鉄道事業者が自ら測定し、自己申告しているに過ぎない。しかも、その測定方法は、一部の事業者で自動改札データと併用している例もあるようだが、職員らによる「目視」が基本だというから驚きだ
(注6)。つまり、人間の勘頼みの測定であり、正確かつ客観的なデータとはとても言えない代物なのだ。
さらに問題なのは、平均混雑率の算出する路線や区間が毎年のようにコロコロ変わっていることだ。同じ路線・区間での定点観測でなければ、その平均値を時系列で比較衡量はできないはずである。
山手線や埼京線はなぜ外れた? また、かつて混雑率ランキングでトップの常連だったJR山手線・上野→御徒町区間は、平成19(2007)年度あたりから平均混雑率の算出対象である「主要31路線・区間」から外された。埼京線や武蔵野線などの混雑率上位常連路線も同様にいつのまにか主要路線から外れている。さらに地下鉄では調査対象区間が頻繁に変更されている。
この理由は定かではないが、年を追うごとに上位路線が次々と外されていけば、それだけでも「平均混雑率」が低下していく。「平均混雑率」が低下しているように見せかけるために恣意的に操作しているのではないか、と勘繰りたくもなる。
さらには、混雑率の分母となる輸送力の算出方法も実はあいまいで、事業者ごとにバラバラのようだ
(注7)。分母の算定は事業者のさじ加減次第、分子の輸送人員は目視による事業者の判定、調査対象路線・区間もコロコロ変わるというのだから、事業者がデータを操作しようと思えば赤子の手を捻るようなものだろう。
データ操作? もし鉄道事業者や国交省が混雑率を意図的に低くみせるために操作しているとすれば、動機は何だろうか。
推測だが、おそらく事業者にとっても国交省にとっても、さらには政権与党にとっても、本音では「大都市圏でこれ以上の輸送力増強投資はしたくない」という点で利害・思惑が一致しているからではないか。事業者は今後の人口や就労者の減少、つまりは都市鉄道の顧客が減少していく可能性が高いことを考えれば、将来の収益に結びつかない設備投資はしたくない。大都市での設備増強には莫大な資金がかかる上に、運賃は認可制だから、投資に見合う運賃の値上げが簡単に認められるわけでもない。民間企業としてコスト・パフォーマンスを考えれば、当然の判断かもしれない。
むしろ海外からのインバウンドを含めて需要増が見込め、利益率も高い新幹線や観光地への特急列車など、旅行需要をすくい取るための投資に資金を集中させたいのが本音だろう。
政権与党は厳しい財政事情を考えれば、寝た子(通勤ラッシュ問題)を起こしたくはない。国交省も、政治圧力を受けての予算折衝で財務省を敵に回したくはないし、事業者からは投資の見返りに運賃値上げを認めろ、という政治的に厄介な問題を抱え込む羽目に陥りかねない--。「利害・思惑の一致」とはそういう意味である。
「通勤ラッシュ問題は順調に改善を続けている」と国民・利用者が信じてくれている限り、輸送力増強を求める世論⇒政治圧力は高まらない。マスコミ・国民を巧妙な捏造データで騙し、通勤地獄で苦しんでいる勤労者を「それでも年々改善しているのだなあ」「先輩方はもっと酷い通勤地獄に耐えてきたんだなあ」と思い込ませ、大人しくしていてほしいのだ。今のところその目論見はうまくいっているようにみえる。
首都圏住民は感覚麻痺 大都市圏の勤労者は殺人的な通勤ラッシュが生活の一部になっており、すでに感覚が麻痺しているのだと思う。私は大学入学のため上京し、最初に凄まじい通勤ラッシュの洗礼を受けた際、「こんな酷い目に毎日耐えなければならない東京のサラリーマンにだけは絶対になりたくない」と強く思ったことを今でも鮮明に記憶している。皮肉にもそうなってしまったが、いまだに慣れるものではない。
痴漢犯罪がなくならないのは、日本人男性の性欲や倫理観が特別歪んでいるからではないだろう。もちろん、だからといって痴漢犯が免罪されるわけではないが、非人間的、非文化的な異常空間が人をおかしくさせてしまっている面が大きいのだと思わずにはいられない。
女性から「痴漢」と叫ばれ一時的に拘束された経験が、私にもある。駅の派出所で、その少し頭のおかしい女性が警察官に対し虚言だと認めたため、何とか難を逃れることができたが、もしその女性が嘘、あるいは思い込みを主張し続けていれば、私は「それでも僕はやってない」の主人公と同じ目に遭っていたかもしれない。一方で、実際に痴漢に遭い、男性不信、人間不信に陥った女性も少なくないだろう。
この国では、こんな不幸な異常空間が何十年にも亘って放置されている。しかも、おそらくダイヤの過密化の影響で、昔に比べて電車の運行管理が厳しくなっているために運転が乱暴になっているのではないか。揺れだけでなく、電車の遅れも増えている。昔は今のように酷くはなかった。
良くも悪くも阿呆の如く我慢強い日本人にしかできない離れ業だろう。普通の国ならとっくに暴動が起きるか、そんな生活には愛想を尽かしてサッサと辞めてしまうに違いない。私自身を含め、日本人は哀れである。
社会的、経済的な負の効果 私は大都市鉄道の異様な混雑が乗客の心身を蝕んでいる負の影響は、一般に考えられているより遥かに大きいと考えている。
自殺率の高さや電車への飛び込みの多さは、よく言われる雇用問題や所得格差問題が大きな背景にあるのは間違いないだろう。しかし、優しさのかけらもない国家や大都市や企業社会の象徴として、この非人間的な巨大鉄道システムが市民の上にのしかかり、毎日の過重なストレスが心身の耗弱を進めていることとも全く無縁とは言い難い。
さらには、通勤中は人間の嫌な面やマナーの悪さを毎日のように目撃させられてしまう。シルバーシートのすぐ前に老婆や妊婦がいても寝たふりをして席を譲らない大人たち、ホームの列に平気で割り込むオバサン、降車する人が車両内にたくさん残っているのにドアの隙間から我先にと乗り込み、人垣をかき分けて座席を確保しようとする人……。皆、疲れていて必死なのだろう。自分が生き延びることだけで精一杯、他人のことなど構っていられない……。この異常空間が罪なき人々をそういう心理状態により一層追い込んでいる。痴漢もそうだが、こういう荒んだ「社会」に毎日身を置いていれば、次第に心が病んでいき、人間や社会に対する不信感が膨らんでいく。過酷な通勤地獄が、社会というものに対する市民の不信感や嫌悪感の増幅装置になってしまっている。鉄道会社の幹部にその自覚はあるだろうか。政治家や官僚たちには、この暴力的な巨大システムを本気で変えようというセンスと志があるだろうか。
それだけでなく、外国からの留学生や高度人材の獲得といった経済的な視点、都市が持つソフトパワーの面から考えても、東京の交通網の便利さと裏腹の過酷さは重大なネックになる。大きくいえば、日本の都市政策、交通政策の貧困が招いた結果であるが、例えば、ラッシュ時間帯の料金を大幅に引き上げるなど、その気になれば改善策はいくらでもあるはずだ。
もし、技術的・経済的に大幅な改善が困難なら、首都機能の移転が取っ掛かりになるはずだ。首都直下型地震などへの防災上の観点のほか、脱原発すなわち再生可能エネルギーを中心としたスマートグリッド型分散都市モデルへの移行を進めるのであれば、首都機能移転を起爆剤として多極分散型の国家形成に大きく舵を切るべきなのだ。それでも経済・金融センターとしての役割は東京に残るだろうから、東京圏の人口や鉄道利用者がそれほど減るとは思えないが……。
これでも「文化国家」? いずれにせよ、こんな異常事態が首都で毎日のように繰り返されている国が、果たして「文化国家」と呼べるだろうか?
日本の鉄道システム、特に東京の鉄道ネットワークや運行システム、遅延の少ない正確な運行技術は世界一だという評価がある。しかし、私に言わせれば、むしろそれ以上に、普通の日本人乗客たちの尋常でない人間離れした忍耐力や精神衛生上の果てしない犠牲こそが、有史以来世界最大の巨大都市を形成している最大の要因である。その異常性は、都市防災上も極めて大きなリスクを抱え込んでいる。
この状態は、日本の大都市住民のQOL(生活の質)に対する障害の相当に大きな比重を占めていると思う。法的にも国民の基本的人権を蔑ろにしており、憲法13条(個人の尊重)や25条(健康で文化的な生活を営む権利)に反している。過去、違憲判決がでた公害や騒音と何が違うだろうか。被害者数の多さを考えれば、公益を害している範囲は公害や騒音以上であろう。この違憲状態を放置したまま、誰も問題にさえしないのでは、「文化国家」とも「法治国家」とも言えないだろう。
(注1)三大都市圏における主要区間の混雑率
http://www.mlit.go.jp/common/000161489.pdf(注2)三大都市圏における都市鉄道平均混雑率の推移
http://www.mlit.go.jp/common/000161489.pdf(注3)東京都就業者数の予測について
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2010/12/60kcl100.htm(注4)
・混雑率
http://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/96.html・混雑率とは
http://m.kotobank.jp/word/混雑率
(注5)混雑率・集中率一覧(平成8年)
http://www.nk-works.sakura.ne.jp/ayano/data/data-1/date-1-h10.htm(注6)
・混雑率の測定方法
http://www.jterc.or.jp/topics/josei_shinpo3.14/8_konzatu_ritu.pdf(注7)定員
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/混雑率
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