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硫黄島の幽霊の噂

Posted by fukutyonzoku on 30.2012 未分類 7 comments 1 trackback
もう10年以上前になるが、筆者は硫黄島を取材で訪れたことがある。

硫黄島は小笠原諸島の南端近くに位置し、行政区は東京都小笠原村。小笠原村の中心地である父島からは南へ約300㌔、東京からは南へ約1200㌔で、グアム・サイパン島とのちょうど中間辺りに位置する。
硫黄島は太平洋戦争末期の1944年に陸海軍部隊の進出に伴い、盛時1000人以上いた島民は小笠原や内地に租界させられ、以後、島に住む一般島民はいない。戦後は全島が海上自衛隊・航空自衛隊の航空基地となっており、一般の立ち入りは原則禁止されている。
住人は駐在の自衛隊員と関係工事業者らだけで、民間の交通アクセスは当然なく、隆起活動が激しいため港も築港できない。

筆者は海上保安庁の小型輸送機で硫黄島に入った。

当時も硫黄島南側の海岸には放棄された揚陸艦の残骸が残っていた。本土へ帰還した遺骨は約8千柱で、1万3千柱余りの遺骨はいまだ硫黄島内地下に埋もれたまま。また無数の不発弾も残されており、不発弾爆発の危険性から自衛隊員でも立ち入りが禁じられている地域が存在する。有毒な硫黄ガスへの対処とともに、不発弾の回収が困難なことが、遺骨収集の妨げとなっている。
また、大戦中に破壊された大砲や戦車の残骸、飛行場跡、地下壕跡、トーチカ跡等の戦争の痕跡もいまだに数多く残っている。筆者は日米双方の戦没者慰霊碑での参拝はもちろん、自衛隊航空基地司令官の案内でそれらを一通り見学し、いくつかの地下壕跡にも入った。

ちなみに、硫黄島では今尚戦死した日米双方の幽霊が出るという噂がある。以下は工事関係業者として硫黄島に半年滞在したという方の記事だが、これは嘘ではないと思う。
http://syarecowa.moo.jp/sinnrei-iihanashi/14/77.html

戦後50年の節目を翌年に控えた平成6年(1994年)、天皇陛下が初めて硫黄島を訪れ、慰霊祭が開かれて以来、幽霊はピタッと出なくなったという話は、島を案内してくれた当時の基地司令官から筆者が聞いた話と一致する。それも冗談めかして言うのではなく、大真面目な顔で、実に抑制の効いた声で厳かに話すのだ。もっとも、この工事関係業者の方によれば、その後もまだ成仏しきれない英霊が出ているようである。

前回書いたクリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」では、米国も実は戦費調達に苦労していたことが描かれているが、米国が追い込まれていたのは財政だけではない。硫黄島とその後の沖縄の地上戦で米軍は日本兵の奮戦により予想を大きく上回る損害を出した。米国は硫黄島と沖縄で日本兵の強靭さを知り、恐れるようになっていたのだ。日本本土にはまだ300万の兵力が残されていたとみて、上陸して地上戦を行えば米兵にはさらに100万人以上の犠牲を強いられると予測していた。そんなに犠牲を出せば米国内で反戦世論が一気に高まり、政治的に戦争は継続困難となる。だから米国はなりふり構わぬ市街地への無差別空襲、さらには広島、長崎への原爆投下という最終手段に訴え、戦争終結を急いだのだ。

逆に考えれば、日本がもしサイパン、もしくは硫黄島での玉砕を最後に降伏していれば、壮絶な犠牲を出した沖縄戦や本土への無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下はなかった。その時点でもはや日本に勝機は残されていないことは誰の目にも明らかだったのだから、その時点で降伏の英断ができなかった戦争責任はやはり無視し得ないであろう。

余談だか、米国留学経験やカナダ大使館駐在経験もある栗林中将や西男爵は陸軍きっての国際派。彼らが最初から玉砕が目に見えていた硫黄島に送り込まれたのは、陸軍内に根強かった国際派への偏見といじめの結果だったと思わざるを得ない。

硫黄島で戦死した日米2万7000の御霊と全ての戦争犠牲者のご冥福を改めて祈る。
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