東京新聞の
長谷川幸洋氏は「安倍は『建設国債をできれば日銀に全部買ってもらう』と言っただけで、『建設国債の日銀引き受け』という言葉は安倍のカギカッコ発言の中には出てこない」とし、だから多くのマスコミ報道は一方的で勇み足の解釈であったと言う。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34134 果たしてそうか? 結論を先に言えば、間違っていると思う。この人、この程度の理解で、ブロック紙とはいえ国政にもそれなりの影響力がある新聞社の経済担当論説副主幹を仰せつかってるなあ、とこの新聞社の蛮勇に感心するばかりである。「ゲリラ戦」を得意とするこの新聞でなければありえない人事だろう。
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「買い切りオペ」と言ったから引き受けではない? まず、安倍氏は17日の熊本市での講演で、「建設国債をできれば日銀に全部買ってもらうことで、新しいマネーが強制的に市場に出ていく」と語った、と報道されている。マスコミ各社の報道内容には殆ど違いはない。報道では確かに、カギカッコの中の安倍氏の発言からは「直接引き受け」という表現は見当たらない。
(注:この記事を執筆した後の11月29日、安倍氏は「買い切りオペで」とも発言していたことが判明したが、それでも日銀引き受けを主張したと多くのメディアが報じたのは妥当だったという私の見解は変わらない。「事実上の」をつけたほうがベターだったとは思うが、この記事の基本線は維持します) だとすれば、問題はこれをどう解釈するかだ。
日銀に「全額」買ってもらうことを前提に建設国債を発行するのであれば、仮にそれを買いオペの形式でやったところで実質的な引き受けである。まさに中央銀行が政府の借金を肩代わりするする「財政ファイナンス」(マネタイゼーション)にほかならない。
説明するまでもなく、日本の財政法でも、国際的な金融政策の常識としても、禁じ手とされている。実務的には、後述する借換債の「日銀乗換」と同様の理由により、直接引き受けとなるのが自然だ。
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市場では買えない「建設国債」 そもそも「建設国債」という名の国債は市場では売っていない。従って「買い切りオペで建設国債を買う」ことは不可能だ。安倍氏は熊本市での発言が騒ぎとなった後の20日になって、Facebookなどで「(私は)『建設国債の日銀の買い切りオペによる日銀の買い取りを行うことも検討』と述べている。国債は赤字国債であろうが建設国債であろうが同じ公債であるが、建設国債の範囲内で、基本的には買いオペで、と述べている。直接買い取りとは言っていない」などと、自らの暴走発言の責任を報道側に転嫁し、苦し紛れの軌道修正を行った。
(注:その後、「買い切りオペで、と述べてい」たことは確認された)。大騒ぎとなり、さすがにマズイと思った経済ブレーンや自民党内から軌道修正するよう「ご注進」が恐らくあったのだろう
(注:「赤字も建設も同じだが、建設国債の範囲内で」などは、苦し紛れの軌道修正に他ならない)。
もし本当に「建設国債発行額の範囲内で市場から国債を買うべきだ」と言いたかったのなら、誤解を受けないように最初から丁寧にそう言うべきなのだ。次の総理と取り沙汰されている責任ある立場の政治家が、重要な政策論を公式な場で展開しているのであるから、誤解を受けかねない曖昧な言い方を避ける責任は発言者側に100%あると言うべきだろう。
しかも、日銀は既に建設国債発行額以上の国債を毎年市場から買っているので、軌道修正後の「言い訳」は全く意味をなしていない。むしろ安倍氏の一連の発言をつなぎ合わせて判断すれば、国土強靭化復興計画に必要な200兆円の財源となる建設国債を日銀に全額引き受けろ、と言っていると解釈するのが当然だ。
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日銀の独立を奪うのが「強い政府」なのか 繰り返しになるが、その財源である建設国債を日銀に(無条件に)全額引き受けさせるというのであれば、仮に買いオペの形式をとったとしても、それは実質的な「引き受け」と市場は判断するだろう。政府が日銀から政策手段の裁量権を奪うことにもなるので、安倍氏も言及している通り、日銀法の改正のみならず、財政法の改正も必要となる可能性がある。オペレーション(公開市場操作)とは、あくまで政府から独立した中央銀行が、自らの政策判断とバランスシートの範囲内で行う金融調節である。その裁量を奪われ、政府に命じられてやるものは、もはや「オペレーション」と呼んだところで、それはオペを偽装した「引き受け」以外の何ものでもない。その裁量を奪うようなことを公然と主張しながら「買い切りオペと言った」というアリバイは、冷静に考えれば成立しないのだ。
日銀なら日銀ルールの範囲内で、政府から独立したメンバーが金融政策決定会合において、政策金利をどうするか、どこからどういう金融資産をどのくらい買うか、といった具体的な金融調節手段を決定する。政府と中央銀行はインフレ率や失業率(米国のみ)などの政策的な数値目標を共有する政策協定(アコード)を話し合いで締結することはあるが、政府がその手段まで中央銀行に強制することはもちろん、言及するだけでも、中央銀行の独立が法的に保証されているマトモな民主主義国ではあり得ないことなのだ。
「安倍政権」の誕生で本当に安倍氏の主張が実現すれば、世界の市場や専門家、マスメディアはこぞって「日本の新政権は中央銀行の独立性を奪う暴挙にでた」と大ニュースとなり、国債も円も大暴落し、よくてスタグフレーション(不況下の物価高騰)、歯止めの効かないハイパーインフレを招く可能性もなくはない。
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日銀は国債を毎年直接引き受けている? さらには、長谷川氏が文末で触れている、日銀による国債の直接引き受けに関する
高橋洋一氏の見解に対しては、既に多くの専門家が間違いを指摘しているにも関わらず、高橋氏や長谷川氏らはそれらの指摘を恐らく意図的に無視し、誤った解釈を説き続けている。
これは「日銀乗換」といって、日銀保有国債の大量の償還金を賄うために発行する借換債に限って例外的に引き受けているものだ。
https://www.mof.go.jp/jgbs/publication/debt_management_report/2011/saimu2-1-1.pdf→10ページ
財務省出身の森信茂樹・中央大学法科大学院教授も、日銀の国債引き受けを巡る日銀乗換等の誤解について、
同様に解説している。
http://diamond.jp/articles/-/11928 テクニカルな資金繰りに過ぎないため、例外が認められているのだ。実際の国債発行事務は財務省の委託を受けて日銀が行っているのだが、この借換債は日銀への償還金支払いのために発行する国債なので、日銀が財務省の委託を受けて仮に市中銀行にいったん売ったとしても、それを日銀がそっくりそのまま買い戻すというバカなことになる。このため、その手間をショートカットしているだけのことなのだ。日銀の国債保有額は増えも減りもしないので、金融政策上も財政政策上も影響は中立である。つまり、金融緩和でもなければ財政ファイナンスでもないので、現在議論されている直接引き受けとは全く性質が違うのだ。
そのことは、安倍氏らの国債引き受け論や建設国債増発論が、金融緩和の手段として、あるいは大型公共投資の財源論として語られていることからも明らかである。
また、日銀乗換が金融政策上も財政政策上も中立な実務処理に過ぎないからこそ、これまでも財政法上問題とされず、国会でも認められてきたのである。
従って、「日銀による国債の直接引き受けは実は毎年行われているから(財政法上も金融政策上も)問題ない」などという高橋氏の論法は、財政法や国債管理政策に無知なのか、でなければ意図的な歪曲か、のどちらかであろう。
■経済政策を売り歩く人々 高橋洋一氏の仇敵、池田信夫氏はブログにこう書いている。
「様々な既得権を抱える自民党が威勢のいい選挙スローガンを打ち出そうと思ったら、誰も『痛み』を感じない日銀バッシングが政治的には一番楽。そういう傾向は世界的にみられ、バーナンキも言うように、それがまさに中央銀行の独立性が保証されている理由なのだ」
http://t.co/0Bl6wH1X 全く同感だ。政府が本来やるべきことは、税財政改革や社会保障制度改革、労働市場や金融市場等の構造改革の徹底、成長戦略の策定とスピード感を持った実行なのだ。それらは将来の日本にとって非常に重要で、政治にしかできないことなのだが、政治的な摩擦や国民間の軋轢が大きい不人気政策であることが多く強力な政治力を必要とする半面、効果が表れるまで時間がかかる。政治家にとっては火中の栗を拾うような作業なのだ。従って、国益のために悪役になることも厭わないような、一握りの信念のある政治家以外、誰もやりたがらない。
〈日本経済の長期低迷の責任を日銀だけに押し付け、威勢のよい選挙スローガンを叫んでるって? ハハハ、実現性に乏しかろうが何だろうが、まずは選挙に勝たなければ何も始まらないんだよ。どうせ大衆に経済などわからないよ、俺だってわからいんだからさあ。政権を取った後、どうするって? 言い訳なんていくらでもできるんだよ。だって経済は生き物なんだし、少なくとも3党以上のわけのわからん連立政権になるんだから、俺の個人的な発言なんて実現しなくても、誰も文句は言わないだろ?〉
--安倍氏の胸中はおそらくこんなところではないだろうか。
そこに、ノーベル経済学賞受賞者、ポール・クルーグマンの著作のタイトルでもある「経済政策を売り歩く人々」の跋扈を許す隙が生まれる。
かつて日銀批判の急先鋒だったクルーグマン氏は今年に入って「日本は欧米と比べれば案外うまくやってきた。天皇陛下に謝罪しなければならない」と、日銀批判を撤回している。リフレ派と称されるこの国の似非エコノミストたちは、「本家」が撤回した極端なリフレ論をいまだに錦の旗のごとく振りかざしているのだ。経済学会の中での自由闊達で実験的な仮説提示や議論は大いに結構だが、現実の世界で甚大な副作用が懸念されている危うい社会実験をやろうとするなら、話は別だ。
要するに彼らは、政治屋の思惑に沿って、大衆受けしそうな「ブードゥー・エコノミクス」(呪術的経済学)を駆使し、デフレ経済などは鮮やかな魔法のように簡単に解決できると説きながら、猟官運動や売文行為をしているとしか思えないのである。
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