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山本昌投手「アスリートの魂」

Posted by fukutyonzoku on 03.2013 スポーツ 0 comments 0 trackback
NHK-BS1の「アスリートの魂」で、47歳の現役最高齢投手である中日ドラゴンズの山本昌投手の特集「逆境を力に変える 中日 山本昌」をみた。

山本昌投手は日大藤沢高校時代に甲子園出場経験はなく、全国的には無名の投手だった。神奈川県高校選抜チームの一員として社会人チームとの対戦に好投したが、その試合にたまたま目を留めていたのが中日の故・高木時夫スカウト。当時も直球の球速は130㌔そこそこで、とてもプロで通用するレベルではなかったが、高木スカウトは「体が大きく、将来伸びる可能性がある」と、山本昌をドラフト5位指名した。

ただ、入団後もなかなか芽が出ない。最初の2年間は2軍暮し、その後2年も1軍での登板はわずか4試合のみで勝ち星なし。3年目のオフの秋期キャンプで、新監督に就任した星野仙一が山本昌の投球練習をみて怒鳴った、という有名なエピソードがある。
「いつまで、トロトロ投げてる! そろそろ本気で投げてみろ!」
「すいません。これで本気です」
「……」
それほど球速は遅かった。星野は「これじゃ、整理対象にするのも仕方ないか、とね」と、当時を振り返る。

◆運命を変えた野球留学

4年目のシーズンオフに整理対象選手となった山本は、最後のチャンスとしてドジャース傘下の1Aチームに野球留学し、そこでアイク生原と出会う。
生原は「とにかく山本の一生懸命さに心を動かされ、何とかしてやりたいと思った」と振り返る。生原は、当時日本では誰も投げていなかったスクリューボールを習得するよう山本に助言。これが山本の運命を変える。
スクリューを身につけた山本は、みるみる頭角を現し、1Aのオールスターに選抜され、メジャーからオファーがくるまでに。これを知った中日は慌てて山本を日本に呼び戻す。ここから、山本の快進撃が始まる。

山本昌の直球は、球速こそ130㌔台前半とプロの一流投手の中ではかなり遅い。しかし、バッターはもっと速く感じている。その秘密は、強烈なバックスピンにある。150㌔以上を出す投手でもスピンは1秒40~45回転程度だが、山本昌は52回転。このボールの回転数こそが、実は投手の最も重要な要素の一つだ。いわゆる「球の切れ」と呼ばれるのは、この回転数のことなのだ。
回転数の多い山本の直球は打者の手元でピュッと伸び、特に高めの速球は上に伸び上がる(ホップする)ように見える。さらに、縦に鋭く落ちるスクリューボールがあることで、打者にとって縦の落差はさらに大きく感じる。これが山本昌の最大の強みなのだ。大きな体を生かして打者に近い前の方で球を放す技術も加わり、130㌔台前半の直球は150㌔台の豪速球のようにも打者には感じるのだ。

球は若い時より速い?

WBC日本代表のキャプテンを務めたヤクルトの宮本慎也は、山本について「若手の頃から対戦してますが、球は若い頃より今の方が速い」と語る。球速は若手の頃から殆ど変わらないのに、長年対戦している宮本がそう感じるのは、おそらく回転数がさらに上がり、球のキレに磨きがかかっているからだろう。
山本昌の投手人生は、1軍定着後も必ずしも順風満帆だったわけではない。1993年に右鎖骨骨折、95年に故障した左膝を手術した。その翌年から鳥取のワールドウィングで小山裕史代表の指導で科学的なトレーニングを導入。イチローなどのトレーニングも指導している小山代表とともに故障しない体作りと投球の進化を図っていく。
番組でも紹介していたが、小山代表が指導しているトレーニングの一つに、肩関節を柔軟にする運動がある。これは、肩の可動域を広げるためのトレーニングだが、投手にとって肩の関節の柔軟性=可動域の広さは非常に重要だ。可動域が広ければ広いほど、いわゆる「球持ち」の長い投球となり、同じパワーでも、いわゆる腕の「しなり」が効いて球速もスピン量も上がる。

◆重要な肩関節の柔軟性

かつてテレビでみた記憶があるが、日本球界最速の球速161㌔を記録した元横浜ベイスターズの投手、クルーンの投球をあらゆる角度から科学的に分析したところ、肩関節の柔軟性が非常に高く可動域が広いことが豪速球を投げることができる秘密だと結論付けていたことを思い出す。クルーン投手の背筋力や握力などの筋力数値は、実は松坂大輔ら他の日本人速球投手より劣っていたが、この肩の可動域の広さが飛び抜けていた。
山本の場合、このトレーニングによって、筋力の衰えを肩関節の可動域の拡大でカバーすることで球速を維持。スピン量はむしろ若い頃より上がっている可能性がある。宮本が「若い頃より球速が上がっている」と感じるのは、おそらくこのためではないかと思う。

地味でも長く活躍できる秘密

山本昌は2008年8月、42歳11カ月と史上最高齢で名球会入りとなる通算200勝を達成するが、彼は中日の投手陣の中ではどちらかと言えば地味な存在だった。エースとして脚光を浴びたのは、いつも150㌔を超える剛速球を持つ投手、つまり郭源治、今中慎二、野口茂樹、川上憲伸らだった。
 そのチームのエースと呼ばれる開幕投手には、ちょうど彼らの隙間を埋めるかのように4度しか務めていない。最多勝を3回獲得したとはいえ、チームは3回とも優勝を逃し、シーズンMVPになり損ねている。
 山本昌と同年代で鮮烈な印象を残した今中慎二は通算91勝、巨人の3本柱と言われた斎藤雅樹は180勝、桑田真澄は173勝、槙原寛己は159勝、日ハムのエース西崎幸広は127勝、西武のエース渡辺久信は125勝、近鉄のエース阿波野秀幸は75勝に終わっている。あの野茂英雄でさえ山本昌より先に引退することになった。
 次々と現役を退いて行く同年代の投手たちをよそに、山本昌はローテーションの中心投手として投げ続ける。
山本昌の逆境を何度もくぐり抜けてきた「運の強さ」は単に運がよいのではなく、彼の努力を続けるひたむきさや謙虚で誠実な人柄が呼び寄せたものではないか、と思えてくる。
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