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「長嶋茂雄は記録より記憶の人」は本当か

Posted by fukutyonzoku on 31.2015 スポーツ 6 comments 0 trackback


長嶋茂雄は「記録より記憶」に
残る名選手と巷間言われてきた。
確かにプロ野球界で最大のカリスマ、レジェンドとされながら、通算ホームラン数444本は歴代14位、通算打率.305は7000打数以上の打者では歴代4位、4000打数以上では歴代12位、安打数2471本は歴代9位、通算打点1522本は歴代7位にそれぞれ顔を出している程度だ。二塁打418本、三塁打74本はともに歴代8位、長打率.540も11位。一流選手の記録とは言えるが、「球界の顔」とも言える名選手の記録としては確かに少し物足りないかもしれない。
シーズン記録でも打点125(1968年)が歴代24位に出てくる程度で、本塁打39本(同年)や打率.353(1961年)は歴代40傑にも入っていない。
それでは一体、何が長嶋茂雄の凄さなのか。

シーズン最多安打10回は歴代最多

長嶋の記録で今も歴代トップ級を保持し続けている記録を探してみると、シーズン最多安打6年連続や同通算10回、シーズン150安打以上11回などは、いずれもプロ野球記録として今も抜かれていない。首位打者6回、同3回連続はともにセ・リーグ記録であり、右打者記録でもある。
また、通算の二塁打数、三塁打数、長打数、打点数、犠飛数の全てで右打者のセ・リーグ記録を保持している。通算205敬遠、打率ベストテン入り通算13回なども右打者歴代1位だ。通算2471安打は金本知憲(実働21年)に抜かれるまで、長らく大卒選手の歴代最多記録だった。打点も1522打点と大卒で唯一1500打点を突破している。
1971年、史上5人目となる通算2000本安打を達成したが、1708試合での到達は川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録で、右打者では歴代最速。大卒では初の達成者だった。

打撃成績は同時代で傑出

6回の首位打者のうち最も2位との差が小さかったのは1963年・古葉毅との2厘差で、それ以外の5回は全て1分5厘以上の差をつけての文句なしの首位打者。このうち2回はセ・リーグ唯一の3割打者だった。
実は、長嶋が全盛期だった時代はリーグ平均打率が.230と、最近と比べれば極端に打低投高の環境だったのだ。
従って、飛びやすいラビットボールの開発で打率が高まり本塁打数が増えた時代の最近の打者との打撃成績とは本来、単純に比較すべきではない。
同時代での突出ぶりを計る傑出値であるセイバーメトリクスをみると、長嶋はほとんどの通算記録でプロ野球歴代3位以内に入っている。特に打率傑出度(RBA)では右打者歴代トップである。
通算安打を実働年数で割った年平均安打数は145本に達し、同時代に活躍した張本勲134本、榎本喜八128本、福本豊127本、王貞治126本、野村克也111本、衣笠祥雄110本、門田博光106本など、他の一流打者の平均本数と比べても突出して多い。通算打率.305は7000打数以上の選手中では歴代4位、8000打数以上の選手中では歴代2位(右打者では歴代1位)である。

3割、400本、1500打点は歴代4人のみ

実は、歴代の打者で通算打率3割以上、通算本塁打400本以上、通算打点1500打点以上を全てクリアした打者は、長嶋、王貞治、落合博満、張本勲の4人だけ。イチローのように打率はいいがホームランの少ない選手や、逆にホームランは多いが打率の低い選手は少なくない。両方のバランスが取れた「強打者」となると、そうはいないのである。
また、張本や落合はパ・リーグの弱小チームに長く在籍し、マークも比較的緩く、個人成績を上げやすい環境だったのに比べ、王と長嶋は常勝巨人の中核打者。常に相手チームからエース級をぶつけられ、徹底マークに合い続けたことを考慮すれば、張本、野村克也、落合らとも単純には比較はできない。
しかも、この4人の中で大卒は長嶋のみ。実働年数17年と、落合20年、王22年、張本23年と比べて最も短い。野村に至っては26年とさらに長い。累積記録である本塁打数や安打数などの通算記録は、球団を渡り歩き、長くプレーした方が当然有利となる。

数字に残る大舞台での勝負強さ

長島が大舞台に強かったことは、記録上にもはっきりと表れている。日本シリーズでは通算68試合に出場して通算打率.343で、王の.281を圧倒。出塁率.402・長打率.694・OPS1.096の成績を残し、シリーズ初戦では通算12試合で打率.429(49打数21安打)、4本塁打を記録。日本シリーズMVP通算4回獲得は歴代最多だ。
また、サヨナラ本塁打を含む2本塁打を放った初の天覧試合はあまりに有名だが、1966年11月6日の日米野球天覧試合でも場外本塁打を放っている。皇室観戦試合では通算10試合で打率.514(35打数18安打)、7本塁打を記録している。
チームメートだった広岡達朗は「天覧試合は長嶋のためにあったようなもの」と語り、「彼がああいう舞台で力をきっちり出せるのは、実力もさることながら物の考え方(大舞台に物怖じせず、むしろ楽しむ)がすばらしいものを持っていることが大きい」と評している。
また、当時行われていた日米野球戦では、他の多くの選手がメジャーの一流投手を相手に通算打率1割台から2割前後に抑えられた中、長嶋は69試合で打率.295(200打数59安打)の高打率を記録。通算で場外本塁打を含む6本塁打、27打点、26四死球、5盗塁を残した。LAドジャースが当時、長嶋獲得に動いたのも当然だろう。

守備範囲が広く堅守の名三塁手

長嶋は普通の三塁手よりも1.5㍍ほど後ろに守り、特に横の守備範囲が広く、遊撃手や投手の守備範囲の打球も横取りするようにキャッチすることが多かった。長嶋の守備範囲の広さは立教大学時代から有名だったが、実は通算守備率9.65はセ・リーグ歴代2位(1000試合以上)。1500試合以上対象や4200守備機会以上を対象にすれば、三塁手歴代最高となる。7353守備機会をはじめ試合数、刺殺数、補殺数、併殺数など、失策数を除くあらゆる通算守備記録でも全て三塁手のプロ野球記録なのだ。
守備指標のRRF(レンジファクター)でデビュー以来7年連続を含め三塁手リーグトップを通算8回記録。プラスシーズンとの合計値を含め、いずれも三塁手歴代トップで、シーズン214守備機会連続無失策は三塁手のプロ野球記録だ。「エラーでさえ絵になる男」として何でもないゴロをトンネルした場面の記録映像が強い印象を与えているが、実は球界屈指の堅守で守備範囲も広い名三塁手だったのだ。

盗塁も三塁打も多い俊足

新人時代に4番打者も務めながら37盗塁(リーグ2位)を記録するなど、若い頃は盗塁が多かった。結局リーグ盗塁王は取れなかったが、2位を2回、3位も1回獲得している。
また、長嶋の三塁打は通算74本(歴代8位、右打者では広瀬叔功に次いで歴代2位)と多く、1960年5月には4試合連続三塁打の日本記録も作った。

実は三振も少なかった

長嶋の空振りは、脱げたヘルメットが三塁ベンチの方へ飛んで行ったと言われる程で、豪快な空振りでファンを沸かせた。三振した際の画を考え、わざと小さめで楕円形のヘルメットをアメリカから取り寄せて、ヘルメットの飛んでいく角度など空振りの練習をしていたこともあったという。そのため、豪快な空振りやデビュー時の4打席4三振などから三振のイメージも強いが、実際には三振は少ない方だった。
三振数の打数に対する割合.090は、通算400本塁打以上を放った15人の中では張本勲、土井正博に次いで低い。400本塁打以上を記録した打者の中で三振率が1割を切っているのはこの3人だけである。

天性の身体能力

野村克也は、長嶋について「来た球を打てる天才」と称し、捕手として対戦した多くの打者の中で最もスイングスピードの速い打者は誰だったか、と問われ、長嶋だと答えている。
長嶋と対戦した多くの投手や捕手も長嶋を「計算できないバッター」と評し、権藤博や足立光宏は「長嶋さんは打てそうもないコースでもバットを投げ出したり瞬間的に腕を畳んだりしてヒットにするバッターだった」。江夏は長嶋について「打席ごとになぜ打たれたのか、なぜ打ち取れたのかが全く分からない」と語っている。
極端とも言えるアウトステップの打撃フォームについて、川上哲治は「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム。長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評し、少年野球教室などでは「あの打ち方は長嶋だからできるもの。真似してはいけない」と諭していた。
金田正一も「シゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最後の瞬間まで油断できなかった。凄い迫力だった」と語っている。
長嶋は自身の打撃について「コースや球種を絞って打ったことはない」と語っている。これが本当なら、プロの打者にとっては信じ難い話である。普通の打者は2ストライクに追い込まれるまで、球種とコースを絞って対応するが常識だからだ。万然と待っていて打ち返せるほど、プロの投手の球は甘くない。これに対し長嶋は、天性の動体視力とスイングスピード、足腰の強さといった身体能力が並外れて優れていたからこそ、どんな球でも何も考えずにアジャストすることができたのだろう。

万能のスーパースター

まとめると、長嶋の通算打撃記録は一見さほどでもないように見える。しかし、その原因は、大卒のため実働年数が短かったことが大きい。また、常勝チームで人気も圧倒的な球団の中核打者であり続けたためにマークが厳しいうえに、チームの勝利が最優先され、個人記録を優先するようなプレーは許されなかった。さらに、右打者は打撃の全てにおいて左打者より不利だし、長嶋の全盛期は極端な投高打低の時代でもあった。つまり、通算記録の上では不利な条件が揃っていたのだ。
しかし、特に入団から6年目くらいまでの全盛期には、走攻守を兼ね備え、打撃においては打率がよくて長打も量産し、しかもチャンスにめっぽう強い--野手に必要な全ての要素を高いレベルで持っていた「万能のスーパースター」だったことは、記録を仔細にみれば明らかだ。
オリンピックなどの体操競技では、種目ごとの競技とは別に、全種目の合計点を競う「個人総合」種目があり、この優勝者に最高の栄誉が与えられるように、もしプロ野球で「野手総合」部門があれば、長嶋が断然ナンバーワンだろう。少なくとも日本プロ野球史上最高の右打者、内野手であるのは間違いない。(敬称略)

(注)記録やエピソードはNPB公式サイト横浜ベイスターズ関連サイトウィキペディア「長嶋茂雄」などを参考にしており、一部引用しました。
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