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「一撃講和」にみる昭和天皇の戦争責任

Posted by fukutyonzoku on 12.2015 歴史 14 comments 0 trackback
NHKスペシャル「特攻~なぜ拡大したのか~」をみた。
番組では、新たに発掘した資料や関係者の録音テープなどから、軍部の意志決定プロセスを追うとともに、最前線の現場で特攻作戦に関わった兵士たちの証言を集め、特攻が歯止めなく拡大していった真相に迫る力の入った歴史検証報道だ。
軍部や、それを政府と並列させた明治憲法下の統治システム、新聞の責任等は言うに及ばずだが、改めて昭和天皇の戦争責任を考えさせられた。



番組冒頭で、取材班が掘り起こした陸海軍参謀本部の機密資料。特攻は、架空に架空を積み重ねて、どんどん現実と遊離したものになっていき、続けること自体が自己目的化していく。特攻を終戦に向けての政治工作に利用しようとする軍首脳の思惑も。
作戦立案にかかわった軍幹部らの戦後の証言。「特攻で最後の一撃を加えれば、終戦に持っていく動機がつかめる」「これが最後の作戦。これで一撃を与えれば、米国から妥協を引き出せすためのテーブルにつくことができる。無条件ではなしに」。いわゆる「一撃講和」の考え方だ。

昭和天皇の激励

昭和19年10月20日。フィリピン・レイテ島に米軍が上陸。海軍にはもはや、これを迎え撃つ戦力は残されていなかった。そこで立案されたのが特攻。6機の零戦が空母5隻に命中。うち1隻が撃沈。隊員たちの命と引き換えにあげた予想を上回る大戦果だった。これを機に、特攻が拡大していく。新聞も特攻隊の活躍を賛美した。
海軍の特攻の戦果に衝撃を受けた陸軍。当時の陸軍航空参謀、田中耕二中佐は「海軍は敵母艦を沈めるなど華々しい戦果を上げているのに、陸軍は行ったらすぐに地上でやられている。一体何をやってるんだと毎日叱られるので、私は毎日針のムシロの上にいるような思いだった」と戦後に証言。海軍の最初の特攻から10日後、陸軍も78機の特攻隊を編成する。
昭和天皇も「体当たり機は大変よくやって立派な成果を収め、身命を国家に捧げて、よくもやってくれた」と陸海軍に激励の言葉を送った。戦意高揚のためラジオや新聞にも特攻隊員の肉声が盛んに取り上げられた。

過大報告された特攻の戦果

フィリピン沖で陸海軍は500機以上の特攻機を投入。その戦果について、日本側資料では敵艦232隻を撃沈・撃破と記録されている。ところが米国側資料では、日本軍の特攻による被害は58隻とされている。
フィリピンでの特攻に参加した陸軍特攻隊員の木下顕吾さんの証言によれば、上司に偽りの戦果報告をしたことがあると証言する。一緒に出撃した同期の村岡義人さんの特攻機が急降下を始め、ほどなく暗がりの海面で火の玉がみえたが、何に突っ込んだのか確認できず、敵艦も発見できなかった。ただ上司には「村岡は敵輸送船らしきものに激突」と報告したという。木下さんは「海に突っ込んだなんて、よう言わん。上司にはそうとしか言えなかった。正しいとは思わないが、僕の思いやり」と言葉を詰まらせた。
特攻隊の戦果は、軍上層部によって誇張されることもあったという。村岡さんの戦死10日後に出撃した「八紘隊」。出撃機数は10機。敵艦船2隻に命中という報告に対し、参謀は「10艦を撃破」と記録した。
元陸軍航空隊将校の生田惇さんは、特攻隊の戦果が過大に膨らむのには理由があると語る。特攻を部下に命ずることへの自責の念が働いているというのだ。「上司は部下はよくやってくれたと思いたいので大体が過大報告になる。遺族にも『息子さんはよくやってくれた』と言いたいしね」

天皇が支持した「一撃講和」

米軍の本土上陸が確実となる戦況のなか、軍や政府首脳のなかで、戦争遂行はもはや不可能との認識が広がり始める。講和の道を探るか、徹底抗戦か。日本は戦争継続の道を選び、陸海軍は合同で沖縄戦に向けた作戦方針をまとめた。その中心に据えられたのが特攻。もはや、まともに戦える戦力は残っていなかったのだ。
作戦の立案を行った陸軍作戦部長だった宮崎周一中将は、後に「ここでひと叩きできれば、終戦に持って行く動機がつかめる」と狙いを語った。いわゆる「一撃講和」という考え方だ。
古川隆久・日大教授(近代日本政治史)は「日本国家のメンツがあったと思う。建て前上、負けたことのない国が初めて負ける時に全面降参では、全てを失ってしまうかもしれない。無策のまま降伏となれば、自分たちが崩壊してしまうということを一番恐れていたと思う」と解説する。軍内部の主戦派を抑えるためにも、日本は一撃講和に傾いていく。
一撃講和は、昭和天皇も支持していた。昭和20年2月14日、近衛文麿元首相が宮中に参内し、昭和天皇に「最悪なる事態は遺憾ながらもはや必至なりと存ぜらる。一日も速やかに戦争終結の方途を構ずべきものなりと確信する」と言上。それに対し、昭和天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないと、なかなか話は難しいと思う」と述べたという。
つまり、もし天皇がもはや勝ち目がないことが明らかだったこの時点で降伏を決断していれば、沖縄戦や本土空襲、広島・長崎への原爆投下の悲劇は避けられていた可能性があるのだ。もちろんそうなれば軍部によるクーデターが発生していたかもしれないし、米国がすぐにそれを受け入れたかどうかもわからないが(無条件降伏なら受け得れざるを得ないのだが)。

9割近くが訓練不足の特攻隊員

同年4月、米軍が沖縄上陸。特攻機が九州や台湾から次々と出撃したが、この時の特攻隊員の多くは実戦経験がなく、訓練も不十分だった。沖縄戦直前に海軍が記した特攻機全搭乗員の技量調査書。全搭乗員の技量を経験豊富なAランクから、訓練期間3カ月未満で実戦に出してはいけないDランクに分類しているが、Dランクが全体の4割。しかも、この分類基準は、搭乗員の技量低下を覆い隠すために前年に改定された緩い基準に基づくもので、改定前の基準ではDランクは訓練期間9カ月未満だった。旧基準に照らせば、全体の9割近くがDランクになる という。

ベニヤ板の特攻ボートや無機銃の練習機まで

また、沖縄戦に向けて日本軍は様々な「特攻兵器」を開発。小型ボートの先端に爆弾を設置した特攻艇「震洋」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を少し浴びただけで沈没した。1.2㌧の大型爆弾に翼と操縦席とロケット噴射エンジンを取り付けた人間爆弾「桜花(おうか)」。輸送機の腹下にぶら下げられ、敵艦の上空で切り離され、グライダー滑空をした後、ロケットエンジンを噴射し、敵艦に突っ込む。しかし、この頃には米軍のレーダーや艦艇からの対空砲火の精度が上がっていた。一方の桜花輸送機は、桜花の重さで機動力が削がれたことも重なって対空砲火の餌食となり、殆どが敵艦の上空に辿り着く前に撃ち落とされたという。

本来あり得ない練習機による特攻命令まで出た。布張りの複葉機で、機銃もなく、最高速度は米軍機の4分の1。爆弾を積めば、1500㍍滑走路を離陸するのがやっとだった。沖縄戦が終わるまで特攻出撃した練習機は120機以上。爆弾の重りに機体が耐えきれず、敵艦に辿り着く前に不時着する機体が相次いだが、軍幹部は「特攻精神に欠ける」とこれを非難。不時着で逃げられないよう操縦士をロープで操縦席に縛り付けて送り出すことまでしたという。もはや、まともな「作戦」とは言えない。
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