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中国の「改革開放」に全面協力した日本 いまの日本と中国は何を思うのか

Posted by fukutyonzoku on 31.2021 政治・経済 0 comments 0 trackback


 昨年放送されたNHK-BS1スペシャル「中国“改革開放”を支えた日本人」の再放送を視聴し、考えさせられた。非常に良質なドキュメンタリーだった。
https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/P231RG8RJZ/

 中国の経済発展の起点である鄧小平の「改革開放」には日本の政財界挙げての全面協力があり、この協力なしに今の中国経済はあり得なかったことを改めて実感した。同時に、そのことを今の日中両国の人々がどれほどが理解しているのかと、少々腹立たしくもなった。

 この日本の全面協力の裏には、当時の日本の政財界のリーダーの多くが中国で戦争を体験しており、中国に対する同情や贖罪意識が強かったことが大きいのだと思う。1970年代の中国は10年にわたって政治闘争に明け暮れた文化大革命の影響で国はすっかり疲弊。ソ連との関係も悪化し、世界から孤立していた。
 中国の改革開放に対する日本の支援の中心になったのは、当時の土光敏夫・経団連会長と稲山嘉寛・新日鉄会長(土光の次の経団連会長)。稲山は明治期以来、日本の鉄鋼業が発展できたのは中国産の石炭や鉄鉱石を輸入できたためで、中国に大きな「恩」を感じていたという。

 78年8月の日中友好条約締結直後の同年10月、当時副総理だった鄧小平が初訪日し、日本各地の工場を視察。ちなみに、ハーバード大のエズラ・ヴォーゲルが日本の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を絶賛した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版したのは翌79年だ。
 鄧小平の訪日後、中国国家経済委員会が3班に分かれて1カ月かけて日本を視察。日本を代表する企業40社がこの視察に協力したという。鄧小平は欧州諸国にも視察団を派遣したが、中国の経済発展のモデルを同じ東洋文化を背景に持つ日本に見定めた。
 鄧小平は、当時世界最先端と言われていた新日鉄君津製鉄所を視察した後、「これと同じものを上海に作りたい」と稲山に協力を要請した。

 そうして上海・宝山に2年半で周辺インフラを含む一貫製鉄所を建設するという、世界でも前例のない日中巨大プロジェクトがスタート。ところが、81年1月、中国側のインフレと資金不足に加え、世論の反発や政治闘争の影響もあり、他の石油化学プラント建設などと共に日本側に建設中止を通告。日本側はすぐさま民間資金を含む3000億円の追加支援パッケージを新たにまとめ、建設が再開された。こうして何度も挫折し曲折を経ながら新日鉄を中心に1000社超が参加し、 8年近くかかってようやく完成。それが今も中国最大の製鉄所であり改革開放のシンボルともなった宝山製鉄所だ。

 NHKでドラマ化された山崎豊子「大地の子」は、この日中巨大プロジェクトを舞台の一つに描いている。完成直前には宝山の技術者1000人が来日し、新日鉄などで研修を受けた。完成後も新日鉄などから日本人数百人が常駐し、5万人の従業員を指導した。

 国有企業改革を質の面から支えたのが小松製作所(現コマツ)だ。戦後間もない頃から中国ビジネスに関わっていた河合良一社長(当時)のリーダーシップが大きかったという。中国最大の国有エンジン工場「北京内燃機総厰」にエンジニアを派遣したり、日本で中国人の研修を受け入れたりしながら、当時世界最先端だった日本のTQC(全社的品質管理)を指導。その結果、計画経済で弛緩し切っていた国有企業工場の生産性と製品品質は劇的に改善され、党中央でも沙葉工場長が小松のTQC導入の成果を報告。その後、1年間で全国から9万人が北京内燃機総厰を視察し、日本流TQCは中国全土に広がっていった。
 沙葉工場長はその後、党幹部に抜擢され、日本の経団連に当たる中国企業協会の会長に就任。「小松のことなら」と病を押してNHKのインタビューに応じ、「小松の指導を受ける前の製品は厳密に言えば全て不良品だった。外国企業が無料でこのような指導を行うことはまずない。中国市場に進出しようということではなく、もっと高い次元の動機で中国の現代化のために尽くしてくださった」「中国の改革開放の全ての過程は小松のTQCの影響を受けている」「中国企業を代表し、中国を助けてくれた全ての日本の友人に感謝の気持ちを伝えたい」と最大級の謝意を示した。

 さらには、鄧小平は日本人エコノミストを外国人初の国務院経済顧問に迎えた。白羽の矢が立ったのが、経企庁で所得倍増計画などの立案にも関わった大来佐武郎氏。79年1月、北京で500人を超える中国政府幹部や経済専門家を前に大来の集中講義がスタート。経済成長の好循環を生み出すために市場原理導入の必要性や、資金不足に対応するため外貨導入の必要性を訴えた。それまで中国は西側から資金を借りたことがなかったが、鄧小平は円借款の導入を決断した。
 大来はさらに「日中経済知識人交流会」という新たな組織を立ち上げた。日本の選りすぐりの経済専門家を集め、鄧小平の右腕だった谷牧副首相や中国側の経済政策責任者らを交えて毎年合宿を行い、改革開放に必要な経済政策を議論した。この交流会は現在も続いているという。

 政治も鄧小平の改革開放を全面支援した。72年の田中角栄と周恩来の日中共同声明による国交回復に続き、78年8月には日中平和友好条約が締結され、同年12月に首相に就任したのが大平正芳。
 大平は戦時中、大蔵官僚として中国の張家口(現河北省)の興亜院に派遣され、日本軍の侵略の実態を目の当たりにし、軍部に反感を持っていたため、戦後も中国に同情的だった。日中共同声明時に田中内閣の外相だったこともあり、円借款供与など中国への支援を加速させた。79年11月の内閣改造では、中国国務院経済顧問として対中協力に参加していた民間人の大来佐武郎を外相に抜擢。大来は「円借款はアンタイド(紐付きなし)で行う」と表明し、当時としては破格の500億円の無条件円借款を中国に供与。その後、宝山製鉄所等の建設が暗礁に乗り上げた際にも、民間資金を含め3000億円の借款追加を行った。
 大来は「多少の波風はあるけれど、日中の関係は切っても切れない縁にある。未来永劫、隣国同士として仲良くしなければならない。そのことが両国双方にとって利益になることなのだ」と語っている。
 稲山嘉寛は「中国経済の安定と発展はアジアの安定につながっていく。ひいては世界の平和と安定につながっていく」と語った。
 はたして今の中国の姿を見て稲山や大来がもし生きていたら何と言うか、聞いてみたい。今では日本の3倍近い規模の世界第2の経済大国に成長し、その強大な経済力と軍事力を利用して覇権主義的な軍拡と途上国への経済支配を試み、チベットやウイグル、香港の人権を力で押さえ込み、東アジアと世界を不安定にしているようにしか見えない。日本に対しても不買運動や尖閣諸島での実効支配に露骨に挑戦し、東南アジアでは南沙諸島を武力で実効支配し、軍事要塞化している。大平や土光、稲山、大来らは草葉の影から「中国に騙されたと 」と嘆いてはいないか。あるいはその後の日本の対応にも問題があったのか。聞いてみたかった。
 確かに当時は多くの識者が「中国が経済的に豊かになれば、政治も自ずと民主化する」と考えていた。私もそうだった。しかし、今のところその楽観論は裏切られている。中国の「社会主義市場経済」はうまく行き過ぎて、中国共産党を増長させてしまった。うまく行かせた最初のきっかけを作ったのは、他ならぬ日本だったということだ。
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