遅ればせながら「父親たちの星条旗」「硫黄島(いおうじま)からの手紙」を続けてみた。いずれもクリント・イーストウッド監督の作品で、太平洋戦争後期の再激戦として有名な「硫黄島の戦い」を、前者がアメリカ側の視点から、後者が日本側の視点から描いた作品。互いに「あわせ鏡」となる連作である。
興行的には必ずしも成功したとは言えないようだが、このあわせ鏡の手法で戦争を両当事者側から描くという斬新な試みは過去例がなく、その手法によって自ずと戦争の輪郭が複層的に浮かび上がってくる。イーストウッド監督は、日本側から描いた「硫黄島からの手紙」については当初、日本人監督を探したようだが、見つからず、結局自らメガホンをとった。しかし、結果的にはその方が良かったのではないか。見事に日米双方の対比を浮かび上がらせることに成功しているからだ。製作・公開時期が米国のイラク戦争と重なってもいる。イーストウッド監督の反戦への思いや映画への情熱、斬新な手法に改めて敬意を表したい。
1945年2~3月に行われた硫黄島の戦いは、日本軍2万129人(全軍の96%)が玉砕、米軍は2万8686人の戦死傷(戦死6,821人、戦傷2万1865人)した。太平洋戦争で米軍の損害が日本軍を上回った唯一の戦いだ。このため、指揮官の栗林忠道・陸軍中将は米国でも名高い。今では世界最強と謳われる米海兵隊は「我々は日本兵に学び強くなった」と公言するほどだ。摺鉢山に米軍海兵隊によって星条旗を掲げる際に撮った写真は、米バージニア州アーリントン国立墓地(米国の戦没者専用墓地)にある「合衆国海兵隊記念碑」のモデルになっている。
なお、硫黄島の現在の正式呼称は「いおうじま」ではなく「いおうとう」である。
「あわせ鏡の手法」で効果的だったシーンの一例として、捕虜に対する扱いがある。「父親たちの~」では、兵士たちの間で日本兵が捕虜と思しき敵を斬首する写真が「日本軍の捕虜になると、こうなる」という噂とともに広まり、兵士たちの間に戦慄が走る。一方、「硫黄島から~」では、戦前のロス五輪で乗馬障害競技金メダリストである西竹一男爵(バロン西)=陸軍中佐=が、捕虜の怪我の手当を衛生兵に命じる。流暢な英語で捕虜を慰め、部下の前で捕虜が携帯していた母親からの手紙を和訳して読み上げる。これを聞いた部下の清水は、アメリカ人も同じ人間なのだと悟る。
彼が所属する小隊がほぼ壊滅し、生き残った5~6人が相次いで手榴弾で自爆を図るが、清水は逃走して敵に投降。米軍の捕虜になれば食事が十分に与えられると噂で聞いていたが、捕虜の見張りを命じられた米兵が腹立ち紛れに清水ら二人の捕虜を狙撃し、清水は命を落とす…。
これは「米国は(常に)正義」「日本(敵)は極悪非道」という、米国が陥りがちな独善性に対するアンチテーゼであろう。
また「父親たち~」では、追い詰められて地下壕の中で手榴弾で自爆した後の兵士たちの無残な姿を米兵が発見するシーンとして描かれていた。これに対し「硫黄島から~」では、日本兵たちが相次ぎ手榴弾で自爆する生々しいシーンとして描いている。何人かの上官や戦友の自爆死を目の前で見た心優しき日本兵(メジャーリーガー斎藤隆が演じた)は、泣きじゃくりながら自爆死を遂げる。最後の一人となった前記清水が逃走するーー。これも「人間の感情を持たない狂気のサムライ」という、米国側に根強い日本兵に対する固定観念を覆すための効果的な描き方だ。
さらに「父親たち~」で新鮮だったのは、米国が実は戦費調達や硫黄島での夥しい兵士の犠牲により、かなり追い込まれていた点を強調していることである。そのため米国政府は多数の新聞の一面を飾った、摺鉢山で星条旗を掲げた写真と、そこに写っていた兵士たちを「英雄」に仕立て上げ、戦意高揚と「国債を買おうキャンペーン」に利用する。財務省幹部が「英雄」たちを自室に招き入れ、国債キャンペーンへの協力を単刀直入に要求。これに「英雄」の一人が「あの写真は星条旗を交換した時のもので、私は英雄ではない。こんなのは茶番だ」と抵抗。それを聞いた財務省幹部は激昂し「とにかく金がないんだ。次の国債募集で前3回分を上回る金を集めなければ、もう戦車も機関銃も弾丸も作れない。石油も買えないから戦闘機も飛ばない。君たちが戦場に戻る時は石を持っていけ! 今度の国債募集を成功させなければ、我々は日本の条件を全部のんで日本に許しを乞うしかなくなるんだ」と早口でまくし立てるシーンがある。「英雄」らが引っ張り回されたパーティーでは、三人組の女性歌手が「国債を買おう」と歌っていたのには笑わされた。
この脚本は「米国は圧倒的な国力差で日本に楽勝した」という日米双方にある誤解を解き、特に米国民に対し、「戦争に勝者などなく、双方が敗者である」という強烈なメッセージが込められている。当時の日本のGNP(国民総生産)は米国の24分の1。石油、鉄鋼などの戦略物質も大半を米国からの輸入に頼っていた。米国からの石油禁輸で日本はオランダ領インドネシアの石油に活路を見いだすしかなく、海上輸送路を絶たれれば最初から万事休すであった。資源保有量を含めて国力に差があったのは事実だが、それでも当時の日本は世界最大の海軍力を有していたし、(兵力の元となる)人口も米国は1億3000万人と日本の7000万人の2倍に満たなかった。米国にとっても決して最初から楽勝の戦争なんかじゃなく、末期には米国も相当の犠牲と戦費を払い、戦争の早期集結に必死だったのだ、と。
実は、もう10年以上前になるが、筆者は硫黄島を取材で訪れたことがある(次回に続く)。
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