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蔓延する「駄々っ子の論理」とブードゥー・エコノミクス

Posted by fukutyonzoku on 25.2012 政治・経済 1 comments 1 trackback
福島原発事故以来、脱原発論に絡めて「経済成長や利便性ばかりを追求してきた経済社会の在り方を見直すべきだ」と言った資本主義社会の見直し論が増えている。最近の反TPPや、米国の「ウォール街占拠(we are the 99%)運動」も、程度の違いはあれ(米国の所得・資産格差は圧倒的に大きい)、同根かもしれない。新聞の投書欄にも、高齢者を中心にこの手の意見をよく見かけるが、その度に思わずため息がでてしまう。

「清貧の思想」は美しいが…

東洋的な「清貧の思想」やキリスト教的な博愛平等主義は、死生観や宗教観としてはもちろん理解できる。個人の生き方や価値観の問題であるなら、他人がとやかく言うべきものではないとも思う。ただし、政策論として論じているのであれば話は別だ。政策論としての「清貧の思想」は百害あって一利なしだと思うからだ。
資本主義社会にあっては、金儲けなどの物欲や名誉欲、出世欲、自己実現といった「欲望」が技術革新や経済成長を生む原動力であり、それを否定することは資本主義の否定にほかならず、すでに失敗が歴史的に明らかになった社会主義や共産主義の社会実験を「日本だけでも行うべきだ」と言っているのに等しい。今や共産主義の「本家」である中国やロシアでさえ、ご存知の通り、国家が先頭に立って国営企業を「経営」する「国家資本主義」に大きく舵を切っている。グローバル化の恩恵を最大限享受し、世界中の富と資源を呑み込もうとしているのだ。日本を含む全ての国はグローバル化を
拒否して鎖国しない限り、国際競争から免れることはできない。

「清貧の思想」は観念的には理解できるが、その立派で美しい思いを現実の政策に落とし込んだ場合には、経済は停滞し、デフレにしろインフレにしろ、国民の大多数は生活レベルの下降スパイラルを余儀なくされるだろう。そうした事態を政治的に本当に理解し覚悟していて、そうした思想を説いているのだろうかという強い疑問がある。この手の話は典型的な「総論賛成、各論反対」に陥りやすいテーマなのだ。
「目先の経済利益を優先し」などと簡単に政府を批判するが、経済とは国民生活や国民の生き死にそのものに関わる重要な問題だ
。日本人はカネを汚いものだと蔑視する武家社会以来の悪い癖が抜けないキライがあるが、現実の貨幣経済では、殆どの価値が貨幣価値に置き換えられている。近世とは「カネ」の重みがまるで違うのだ。
政府が短期的にも中長期的にも経済利益を軽視し始めたら、その国の経済は終わりだ。増税を先送りし続けて財政が破綻、金融恐慌とハイパーインフレが起こり、経済が破壊されてしまった場合、増税に反対した人たちはどう責任を取ってくれるのだろうか。
恐慌になれば多くの中小零細企業が倒産し首を吊る経営者や、生活苦・借金苦で首を吊る人たちもたくさん出ることは確実に予測される事態だ。職を失うのはあなたかもしれないし私かもしれない。罪のない子供たちも大学進学を諦めなければならないかもしれない。企業の海外移転がさらに進み、雇用や技術も失われ、非正規雇用がさらに増え、少子化もさらに進む。政府は少子化対策をやろうにも財源はない......。将来の日本はジリ貧に向かって真っしぐらだ。

脱原発の巨額コストは誰が負担する?

脱原発を当然のことのように主張する人たちに言いたいのは、まだ償却の済んでいない原発まで全て廃炉とし、生産設備だったものを政治的に不良資産にしてしまえと言ってるわけだが、その兆円規模の不良債権処理費は一体誰が支払うのだろうか。また、ドイツの例をみればわかるように、市場原理を無視してカネ食い虫の再生可能エネルギーを拡大するための税負担や電気料金の値上げを、あなた方は積極的に負担する覚悟があるのだろうか。あるいは「一定の豊かさを手に入れたのだから、あなたの老後は今より貧しくなり、あなたの子孫はさらに貧しくなりますよ」と具体的な貧困化シナリオを提示されても、それを甘受するのだろうか。
もし、それほど経済成長に一生懸命にならなくても日本は十分豊かな社会を維持できる、と何となく考えているなら、厳しい現実を全く理解していないとしか言いようがない。もし日本経済楽観論が間違っていた場合、次世代に対してどう責任を取るつもりなのだろうか。
日本は世界最高速で少子高齢化が進んでおり、それだけとっても何もしなければ確実に貧しくなっていくことは論を待たない。少なくともそうした経済軽視の考え方が政治的に主流となることは考えにくく、経済成長を放棄するかのような政策は決して採用されることはない。

「経済軽視」の世論と政治

そう言うと「それは程度問題」「政策の優先順位の問題」といった反論が聞こえてきそうだ。しかし、そもそも最近の日本の政治や公共政策は本当に「経済(成長)至上主義」だろうか? 筆者にはむしろ、現実の政治は目先の利害調整ばかりで、長期的な成長ビジョンを欠き、リーダーシップを発揮しようともしない「経済軽視」の政治が続いているようにさえ思える。例えば、非効率な小規模コメ農家をこれだけ手厚く保護している国が他にあるだろうか。少子高齢化で世界の先頭を走り、既に労働力人口も総人口も減り始めているのに、本気で少子化対策にも取り組まず、ましてや世界の殆どの先進国がやってきた移民や外国人労働者の活用にも尻込みし、自由貿易の恩恵を最大限に受けてきた日本にとって他に生きて行く道があるとは思えないのにFTAやTPPなどのグローバル化には反対が多い--。こうした内向き姿勢、現状維持、リスク回避の態度は、私に言わせれば「経済軽視」の態度に過ぎる。日本経済はとことん追い込まれてもっと落ちぶれないと、世論は変わらないのか--と、ため息をつきたくなる。

「脱成長論」を批判する小峰隆夫教授

私が共感する記事をいくつか紹介したいので、まずはお読みいただきたい。

経済成長は七難を隠す 脱成長論を考える(上)
小峰隆夫
2012年4月25日

復興、エネルギー問題、幸福度のカギを握るのはむしろ「成長」 ~ 脱成長論を考える(下)
小峰隆夫
2012年5月16日

全く同感だ。
科学技術や経済成長というものは不可逆的なもの。一度手に入れた技術や知識や国富はそれが次世代の経済社会の新たな土台となるべきものであり、先人の労苦によって獲得したものをむやみに手放す必要はないし、手放すべきでもない。
小峰教授も指摘するように、公害や石油危機、人口・食糧問題など、過去に経済成長の限界説が幾度となく唱えられてきたが、その度にそれらの問題は技術進歩や市場原理(価格調整)や公的規制が解決してきたし、今後も他に方法があるとは思えない。資本主義経済が本当に行き詰っているという証拠は乏しいし、もし行き詰まっているとしても、かつての共産主義国がそうであったように、現実に成功している別の社会システムがなければ、体制変革へのモチベーションは働かないだろう。

企業を優遇する北欧諸国

唯一あるとすれば、北欧型の社会民主主義的体制だろうが、これは「清貧の思想」とは全く別物だし、経済成長の否定でもない。北欧諸国は国民負担の重い「大きな政府」でありながら、法人税などは日本より余程低く、企業や外国人労働者を優遇している。だからこそノキア(フィンランド)、ボルボ(スウェーデン、以下同じ)、エリクソン、IKEA、H&Mといった国際競争力の高い、錚々たるグローバル企業を輩出している。IKEAやH&Mなどは、スウェーデン本社に大量にデザイナーらを雇用している。スウェーデン政府も雇用の大切さを理解しているので、法人税の引き下げなどで企業を優遇している(その代わり、経営者は高い所得税負担を嫌ってスイスなどに居住地や個人資産を移すケースが多い)。このため、過去20年の成長率は日本よりほぼ一貫して高い。

アフリカを救う「強欲資本主義」

長年「暗黒大陸」と言われてきたアフリカのサブサハラ(サハラ砂漠以南)も、これまでの世界の援助政策や経済開発は全くうまくいかなかったが、中国や中東産油国などの新興国が資源や農地に目を付け始めた。そもそもは資源や食糧の安全保障上の国家戦略なのだが、中国は対象国のインフラにも資金を投じている。また、資源価格の高騰や食糧不足を見込んで金儲けを企むヘッジファンドなどの投機資金まで集まり始めた。そうして、おそらく有史以来初めてサブサハラは経済的にテークオフしつつある。
実際にアフリカの貧困を救いつつあるのは、東洋的な美しい「清貧の思想」やキリスト教的な博愛精神に基づく援助政策ではなく、貪欲とエゴの塊である身勝手な世界の投資マネーー。これが現実に起こっていることなのだ。利己的な利益追求行動の集積が結果的に社会全体の利益や福祉を高めるという、アダム・スミスが「国富論」で説いた「見えざる手」がまさに機能している現実がそこにはある。

「欲望だけがアフリカを救う」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20071207/142631/

駄々っ子の我が儘か、ブードゥー・エコノミクスか

「脱原発」と再生可能エネルギーの普及を急げば、電気料金あるいは公的負担(税負担)が増えるのは理の当然であるのに、脱原発派は電気料金値上げには反対している。それでは公的負担を増やすしかないが、財政が危機的状況にもかかわらず増税も嫌--。「あれもいやこれもいや」では、ただの駄々っ子と何が違うのだろうか。

本題からは少し離れるが、こうした駄々っ子の無理難題を叶えてくれる魔法のような理屈が、リフレ派が唱える金融政策万能論なのだ。
彼らに言わせると、①財務省が埋蔵金をたんまりと隠しているので財政は全然危機的状況ではなく、国債はまだまだ増発余地があるから増税は必要ない、②日銀が国債を直接引き受けたり、市場から金融債を買いまくり、お札を刷りさえすればデフレから脱却でき、景気が良くなる。景気がよくなれば税収は増えて、増税なしで財政も再建できる。日銀ができないなら、政府が紙幣を発行すればいい--。

こうした「打ち出の小槌論」は極めて魔術的な魅力がある。なぜなら、誰にも痛みがなく、駄々っ子たちの我が儘を全て叶えてくれるマジックだからだ。これは、米国では「ブードゥー・エコノミクス」(呪術的経済学)と呼ばれている。
もともとは「減税すれば景気が良くなり、逆に税収は増える」と主張して1981年に大統領になったレーガン大統領の経済政策(レーガノミクス)を揶揄して対立陣営がそう呼んだのが始まり。実際には誰もが知るように、インフレ退治のためのドル高政策と軍事費拡大もあり、巨額の「双子の赤字」(財政赤字と経常収支赤字)を後生に残す結果となった。

増税や電気料金値上げ等の痛みを伴う負担増は一切なしに、デフレから脱し、景気も回復する--という現代日本のブードゥー・エコノミクスは、一見立派な評論家たちがそれを唱えるものだから、マクロ経済に疎い若い人たちが信じたくなるのも無理はない。しかし、それらは殆どの場合、事実や理論を少しづつ捻じ曲げ、あるいは無自覚に構築した曲解と断言して間違いない。
仮に国債増発余力がまだ暫く(といっても、せいぜい後数年)あるとしても、財政健全化は後回しにすればするだけ累積債務は積み上がり、財政破綻リスクを高め、再建が難しくなるのは理の必然だ。「増税は必要だが、今はその時期ではない」などというのは、選挙で負けるというババを掴みたくない政治家が、この不人気政策を先送りするための方便でしかない。
「景気がよくなってから」などというのは詭弁であり、内閣府も分析しているように、景気がよくなってから増税を実施するのは景気後退と重なるリスクが高くなるため、タイミングとしてはむしろ最悪なのだ。
http://www5.cao.go.jp/keizai2/keizai-syakai/k-s-kouzou/shiryou/wg1-1kai/pdf/5-1.pdf
→14P
そのことは、増税直後にアジア通貨危機に伴う金融危機に見舞われた97年の増税でも実証されている。増税は景気が悪い時に決定した方が、実施時には景気回復期と重なる可能性が高くなる。増税決定のタイミングを言うなら、実は景気が悪い時こそがベストなのだ。
いつまで先送りを続ければ気が済むのだろうか。
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▶ Comment

こんにちは。
「経済成長への批判」への批判ですが、全体として資本主義の枠内からの批判に留まっているような印象を受けます。経済成長それ自体を見直すべきだ、ということの根拠は、主に環境や資源、人間観にあるので、そこをどのように考えるかが問題だと思います。

環境についていえば、いとも簡単に「技術進歩や市場原理(価格調整)や公的規制が解決してきた」と言われるわけですが、環境は後戻りがきかないのです。福島原発事故で失われた国土は戻ってきません。地球が温暖化すればこれも元には戻せない。オゾン層も回復するにしてもはるか先です。ここ数十年で絶滅させられた夥しい数の生き物は永久に地上から消えてしまい、復活させることはできない。熱帯雨林も破壊されればそれっきり。公害の被害者たちの生命や人生は、当然ながら経済的な補償をもってしても回復することはできない。「解決」とは何なのでしょうか? 「忘却」や「無視」は「解決」ではありませんし、「応急措置」や「弥縫策」も「解決」ではないのです。

そのようなわけですから、環境に対しては人間としては非常に注意深く接する必要があり、これまでこれだけの災厄をもたらしてきた以上、今までのやり方を維持するわけにはいかないはずなのです。「環境」を「資源」と考え、その「資源」を人間に都合のよいように変換して人間の生活水準を引き上げてきたのが、「経済成長」の実態でしたし、ですから経済成長を求めようとすれば不可避的に環境破壊を伴うことになります。しかしここ数十年でもこれだけ不可逆的な(「不可逆的」である、ということがポイントです)環境破壊を起こしてしまっている。そのことを重く受け止めなければならないでしょう。

ローマ・クラブの予言はそのまま現実のものとはなっていないかもしれませんが、結局人間は地球の上で暮さねばならず、地球は有限であること明らかですから、タイム・ラグはあっても「成長の限界」に直面せざるを得ないのはいたしかたないところでしょう。中国の人たちにも、アフリカの人たちにも、今のアメリカ人と同じような生活をさせることが可能なことでしょうか。「資源を買い漁る中国」というような報道が最近よく見られますが、日本がこれだけ浪費的な生活をしている以上、中国にそれを認めないのは公正に反します。ですから世界中の人々に今の日本やアメリカのような生活を究極的には享受させなければならない。現在の世界はそういう方向に動いていますが、それが可能か、持続可能かは極めて疑わしいと思います。持続可能でないとすれば、まず浪費大国(「先進国」ではなく)の側から生活を改めていかないことには、中国や中東その他の人々に資源の浪費や環境破壊を諦めてもらうことは難しいでしょう。

環境は人間が暮らしていく上での基であり、何千年、何万年と引き継がれてきたものですので、これは間違いなく次の世代にも引き渡していかなければならない。これと比べれば「技術」とか諸々の「経済成長の果実」といったものは「おまけ」にすぎないので、「おまけ」のために母屋を犠牲にするわけにはいかないのです。

ですから少なくとも環境を不可逆的に変化させるような行為は一般にしてはならないですし(原発やリニアが典型ですが)、その限りでまず経済成長は抑制されなければならないと考えます。

しかし、そうした環境の観点もさることながら、「経済成長」に価値を置くことに賛同できないのは、生き方、考え方という価値観の問題でもあります。人間観ですね。これは価値観の問題ですから賛同いただけないでしょうが、経済成長に反対する人々の多くの内心の動機でもあると思います。

「経済成長」の「経済」とは生産、消費、分配のことで、これが膨張するのが「経済成長」だとすると、「経済成長」に価値をおくというのはどういうことでしょうか。それは生産や消費や分配に価値を置くことですが、それは価値を置くほどのものなのでしょうか。価値を置くとしてもどの程度の比重を置くべきものなのでしょうか。

「生産」とは要するに私たちの労働のことであるわけですが、「労働」それ自体が価値あることだとは普通の人は考えないのではないでしょうか。「消費」や「分配」はそれ自体は必要なことではあるでしょうが、「消費すること自体に価値がある」とは言いにくいように思われます。さまざまな人生哲学があるでしょうが、別に「清貧思想」ならずとも「食事をするために生まれてきた」とは考えないものです。

むしろ人間にとって大切なのは、仲間とおしゃべりをしたり、歌やダンスを踊ったり、表現活動をしたり、自然と触れ合ったりすることで、そういうことに「必要」な限りで「経済」にはその意義が認められるので、決して経済自体に価値があるわけではありません。

しかし、人間は先のことを考えるものですし、「将来のこと」を心配して生産したものをため込みます。ところが不安というものはいくらため込んでも尽きないので、不安になりだすと際限なくため込んでいきますし、ため込んだ生産物を使ってさらに大きな利潤を得るようにもなっていきます。そういう状態になると「経済」それ自体に価値があるようにも見えてきます。

しかし、そうしたことをしていると、人間の原初的な喜びをどうしても見失ってしまうのです。不幸になります。ですからそういう強烈な「貨幣に対する欲望」は集団でコントロールして、むやみに経済的なものばかりに人々の関心が行ってしまうことのないようにしなければならないのです。小峰隆夫氏の文章の中に


かつて小宮隆太郎氏(東大名誉教授)は、「これ以上成長しないでいいという人は、自分の所得を喜捨してからそういうことを言ってほしい」と書いた(と記憶している。40年くらい前のことなので出典は分からない)。全くその通りだと思う。


という一節がありますが、本当は、貨幣に対する欲望がそれほど強いものであるからこそ、公共的にその欲望をコントロールしなければならないのです。そうでなければみんなが「お金のこと」や「経済のこと」ばかり考えるようになってしまうからです。「お金のこと」ばかり考えている人々は人間本来の喜びを感じることができませんし、協力し合うことも難しいからです。ですから国家の政策の最優先事項が「経済成長」だ、というのは論外と言わなければなりません。

もう少し人間本来の喜びについて考える必要があると思います。「経済成長」は「技術革新」によって、より効率的、大規模に自然を開発(搾取)することができるようになることで進展してきたわけですが、そうした技術によって支えられた生活はそれほど人間にとって喜ばしいものではありません。というのは人間はそのもって生まれた力を十全に発揮することで喜びを感じるという面もあるからです。技術によって支えられた生活は、人間を惰弱にしてきました。体が極端に弱くなりました。アレルギーのような妙な病気が蔓延するようになりました。子供たちは学ぶ意欲を失い、言語能力は低下しています。生活水準が向上しても、人間がダメになっては本末転倒ではないでしょうか。

今の日本人があまり幸福でないのは、豊か過ぎるからでもあるでしょう。技術が人間の生得的な能力を代替してしまい、人間の方はすっかり力が萎えて、することがなくなった挙句、テレビ、パチンコ、ディズニーランド等々で受動的な享楽に浸る、というような状況をさらに推し進めることが健全とは思われないのです。

そういうふうに考えると、やはり「経済」とは「ほどほど」でなければならないのです。「経済成長」という考え方の根本的に問題なのは、そこには際限がないことです。しかし「経済」は結局のところ私たちの「必要」を満たすためのもので、「必要」とはつまるところ「胃袋」のことなのですから、際限のない成長を求めるというのはやはりどうあっても奇妙なことと言わなければなりません。

経済は人間の必要を満たすという、その限りでのみ意義を持つもので、多様な人間活動のうちのごく一部分にすぎないと考えるべきだと思いますし、それは政治や教育や芸術に優先するものではありません。現在の日本はあまりに経済「だけ」が突出しており(それはどれだけ人間本来の「必要」からかけ離れた消費がなされているかを見ればわかります)、いかにもアンバランスなので、経済規模はもっと縮小した方がよいと思います。

(非常に長々しくなり申し訳ありません)
2015.05.17 07:05 | URL | nt #JyN/eAqk [edit]

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2012.06.26 23:20 まとめwoネタ速neo