こんにちは。
「経済成長への批判」への批判ですが、全体として資本主義の枠内からの批判に留まっているような印象を受けます。経済成長それ自体を見直すべきだ、ということの根拠は、主に環境や資源、人間観にあるので、そこをどのように考えるかが問題だと思います。
環境についていえば、いとも簡単に「技術進歩や市場原理(価格調整)や公的規制が解決してきた」と言われるわけですが、環境は後戻りがきかないのです。福島原発事故で失われた国土は戻ってきません。地球が温暖化すればこれも元には戻せない。オゾン層も回復するにしてもはるか先です。ここ数十年で絶滅させられた夥しい数の生き物は永久に地上から消えてしまい、復活させることはできない。熱帯雨林も破壊されればそれっきり。公害の被害者たちの生命や人生は、当然ながら経済的な補償をもってしても回復することはできない。「解決」とは何なのでしょうか? 「忘却」や「無視」は「解決」ではありませんし、「応急措置」や「弥縫策」も「解決」ではないのです。
そのようなわけですから、環境に対しては人間としては非常に注意深く接する必要があり、これまでこれだけの災厄をもたらしてきた以上、今までのやり方を維持するわけにはいかないはずなのです。「環境」を「資源」と考え、その「資源」を人間に都合のよいように変換して人間の生活水準を引き上げてきたのが、「経済成長」の実態でしたし、ですから経済成長を求めようとすれば不可避的に環境破壊を伴うことになります。しかしここ数十年でもこれだけ不可逆的な(「不可逆的」である、ということがポイントです)環境破壊を起こしてしまっている。そのことを重く受け止めなければならないでしょう。
ローマ・クラブの予言はそのまま現実のものとはなっていないかもしれませんが、結局人間は地球の上で暮さねばならず、地球は有限であること明らかですから、タイム・ラグはあっても「成長の限界」に直面せざるを得ないのはいたしかたないところでしょう。中国の人たちにも、アフリカの人たちにも、今のアメリカ人と同じような生活をさせることが可能なことでしょうか。「資源を買い漁る中国」というような報道が最近よく見られますが、日本がこれだけ浪費的な生活をしている以上、中国にそれを認めないのは公正に反します。ですから世界中の人々に今の日本やアメリカのような生活を究極的には享受させなければならない。現在の世界はそういう方向に動いていますが、それが可能か、持続可能かは極めて疑わしいと思います。持続可能でないとすれば、まず浪費大国(「先進国」ではなく)の側から生活を改めていかないことには、中国や中東その他の人々に資源の浪費や環境破壊を諦めてもらうことは難しいでしょう。
環境は人間が暮らしていく上での基であり、何千年、何万年と引き継がれてきたものですので、これは間違いなく次の世代にも引き渡していかなければならない。これと比べれば「技術」とか諸々の「経済成長の果実」といったものは「おまけ」にすぎないので、「おまけ」のために母屋を犠牲にするわけにはいかないのです。
ですから少なくとも環境を不可逆的に変化させるような行為は一般にしてはならないですし(原発やリニアが典型ですが)、その限りでまず経済成長は抑制されなければならないと考えます。
しかし、そうした環境の観点もさることながら、「経済成長」に価値を置くことに賛同できないのは、生き方、考え方という価値観の問題でもあります。人間観ですね。これは価値観の問題ですから賛同いただけないでしょうが、経済成長に反対する人々の多くの内心の動機でもあると思います。
「経済成長」の「経済」とは生産、消費、分配のことで、これが膨張するのが「経済成長」だとすると、「経済成長」に価値をおくというのはどういうことでしょうか。それは生産や消費や分配に価値を置くことですが、それは価値を置くほどのものなのでしょうか。価値を置くとしてもどの程度の比重を置くべきものなのでしょうか。
「生産」とは要するに私たちの労働のことであるわけですが、「労働」それ自体が価値あることだとは普通の人は考えないのではないでしょうか。「消費」や「分配」はそれ自体は必要なことではあるでしょうが、「消費すること自体に価値がある」とは言いにくいように思われます。さまざまな人生哲学があるでしょうが、別に「清貧思想」ならずとも「食事をするために生まれてきた」とは考えないものです。
むしろ人間にとって大切なのは、仲間とおしゃべりをしたり、歌やダンスを踊ったり、表現活動をしたり、自然と触れ合ったりすることで、そういうことに「必要」な限りで「経済」にはその意義が認められるので、決して経済自体に価値があるわけではありません。
しかし、人間は先のことを考えるものですし、「将来のこと」を心配して生産したものをため込みます。ところが不安というものはいくらため込んでも尽きないので、不安になりだすと際限なくため込んでいきますし、ため込んだ生産物を使ってさらに大きな利潤を得るようにもなっていきます。そういう状態になると「経済」それ自体に価値があるようにも見えてきます。
しかし、そうしたことをしていると、人間の原初的な喜びをどうしても見失ってしまうのです。不幸になります。ですからそういう強烈な「貨幣に対する欲望」は集団でコントロールして、むやみに経済的なものばかりに人々の関心が行ってしまうことのないようにしなければならないのです。小峰隆夫氏の文章の中に
かつて小宮隆太郎氏(東大名誉教授)は、「これ以上成長しないでいいという人は、自分の所得を喜捨してからそういうことを言ってほしい」と書いた(と記憶している。40年くらい前のことなので出典は分からない)。全くその通りだと思う。
という一節がありますが、本当は、貨幣に対する欲望がそれほど強いものであるからこそ、公共的にその欲望をコントロールしなければならないのです。そうでなければみんなが「お金のこと」や「経済のこと」ばかり考えるようになってしまうからです。「お金のこと」ばかり考えている人々は人間本来の喜びを感じることができませんし、協力し合うことも難しいからです。ですから国家の政策の最優先事項が「経済成長」だ、というのは論外と言わなければなりません。
もう少し人間本来の喜びについて考える必要があると思います。「経済成長」は「技術革新」によって、より効率的、大規模に自然を開発(搾取)することができるようになることで進展してきたわけですが、そうした技術によって支えられた生活はそれほど人間にとって喜ばしいものではありません。というのは人間はそのもって生まれた力を十全に発揮することで喜びを感じるという面もあるからです。技術によって支えられた生活は、人間を惰弱にしてきました。体が極端に弱くなりました。アレルギーのような妙な病気が蔓延するようになりました。子供たちは学ぶ意欲を失い、言語能力は低下しています。生活水準が向上しても、人間がダメになっては本末転倒ではないでしょうか。
今の日本人があまり幸福でないのは、豊か過ぎるからでもあるでしょう。技術が人間の生得的な能力を代替してしまい、人間の方はすっかり力が萎えて、することがなくなった挙句、テレビ、パチンコ、ディズニーランド等々で受動的な享楽に浸る、というような状況をさらに推し進めることが健全とは思われないのです。
そういうふうに考えると、やはり「経済」とは「ほどほど」でなければならないのです。「経済成長」という考え方の根本的に問題なのは、そこには際限がないことです。しかし「経済」は結局のところ私たちの「必要」を満たすためのもので、「必要」とはつまるところ「胃袋」のことなのですから、際限のない成長を求めるというのはやはりどうあっても奇妙なことと言わなければなりません。
経済は人間の必要を満たすという、その限りでのみ意義を持つもので、多様な人間活動のうちのごく一部分にすぎないと考えるべきだと思いますし、それは政治や教育や芸術に優先するものではありません。現在の日本はあまりに経済「だけ」が突出しており(それはどれだけ人間本来の「必要」からかけ離れた消費がなされているかを見ればわかります)、いかにもアンバランスなので、経済規模はもっと縮小した方がよいと思います。
(非常に長々しくなり申し訳ありません)
「経済成長への批判」への批判ですが、全体として資本主義の枠内からの批判に留まっているような印象を受けます。経済成長それ自体を見直すべきだ、ということの根拠は、主に環境や資源、人間観にあるので、そこをどのように考えるかが問題だと思います。
環境についていえば、いとも簡単に「技術進歩や市場原理(価格調整)や公的規制が解決してきた」と言われるわけですが、環境は後戻りがきかないのです。福島原発事故で失われた国土は戻ってきません。地球が温暖化すればこれも元には戻せない。オゾン層も回復するにしてもはるか先です。ここ数十年で絶滅させられた夥しい数の生き物は永久に地上から消えてしまい、復活させることはできない。熱帯雨林も破壊されればそれっきり。公害の被害者たちの生命や人生は、当然ながら経済的な補償をもってしても回復することはできない。「解決」とは何なのでしょうか? 「忘却」や「無視」は「解決」ではありませんし、「応急措置」や「弥縫策」も「解決」ではないのです。
そのようなわけですから、環境に対しては人間としては非常に注意深く接する必要があり、これまでこれだけの災厄をもたらしてきた以上、今までのやり方を維持するわけにはいかないはずなのです。「環境」を「資源」と考え、その「資源」を人間に都合のよいように変換して人間の生活水準を引き上げてきたのが、「経済成長」の実態でしたし、ですから経済成長を求めようとすれば不可避的に環境破壊を伴うことになります。しかしここ数十年でもこれだけ不可逆的な(「不可逆的」である、ということがポイントです)環境破壊を起こしてしまっている。そのことを重く受け止めなければならないでしょう。
ローマ・クラブの予言はそのまま現実のものとはなっていないかもしれませんが、結局人間は地球の上で暮さねばならず、地球は有限であること明らかですから、タイム・ラグはあっても「成長の限界」に直面せざるを得ないのはいたしかたないところでしょう。中国の人たちにも、アフリカの人たちにも、今のアメリカ人と同じような生活をさせることが可能なことでしょうか。「資源を買い漁る中国」というような報道が最近よく見られますが、日本がこれだけ浪費的な生活をしている以上、中国にそれを認めないのは公正に反します。ですから世界中の人々に今の日本やアメリカのような生活を究極的には享受させなければならない。現在の世界はそういう方向に動いていますが、それが可能か、持続可能かは極めて疑わしいと思います。持続可能でないとすれば、まず浪費大国(「先進国」ではなく)の側から生活を改めていかないことには、中国や中東その他の人々に資源の浪費や環境破壊を諦めてもらうことは難しいでしょう。
環境は人間が暮らしていく上での基であり、何千年、何万年と引き継がれてきたものですので、これは間違いなく次の世代にも引き渡していかなければならない。これと比べれば「技術」とか諸々の「経済成長の果実」といったものは「おまけ」にすぎないので、「おまけ」のために母屋を犠牲にするわけにはいかないのです。
ですから少なくとも環境を不可逆的に変化させるような行為は一般にしてはならないですし(原発やリニアが典型ですが)、その限りでまず経済成長は抑制されなければならないと考えます。
しかし、そうした環境の観点もさることながら、「経済成長」に価値を置くことに賛同できないのは、生き方、考え方という価値観の問題でもあります。人間観ですね。これは価値観の問題ですから賛同いただけないでしょうが、経済成長に反対する人々の多くの内心の動機でもあると思います。
「経済成長」の「経済」とは生産、消費、分配のことで、これが膨張するのが「経済成長」だとすると、「経済成長」に価値をおくというのはどういうことでしょうか。それは生産や消費や分配に価値を置くことですが、それは価値を置くほどのものなのでしょうか。価値を置くとしてもどの程度の比重を置くべきものなのでしょうか。
「生産」とは要するに私たちの労働のことであるわけですが、「労働」それ自体が価値あることだとは普通の人は考えないのではないでしょうか。「消費」や「分配」はそれ自体は必要なことではあるでしょうが、「消費すること自体に価値がある」とは言いにくいように思われます。さまざまな人生哲学があるでしょうが、別に「清貧思想」ならずとも「食事をするために生まれてきた」とは考えないものです。
むしろ人間にとって大切なのは、仲間とおしゃべりをしたり、歌やダンスを踊ったり、表現活動をしたり、自然と触れ合ったりすることで、そういうことに「必要」な限りで「経済」にはその意義が認められるので、決して経済自体に価値があるわけではありません。
しかし、人間は先のことを考えるものですし、「将来のこと」を心配して生産したものをため込みます。ところが不安というものはいくらため込んでも尽きないので、不安になりだすと際限なくため込んでいきますし、ため込んだ生産物を使ってさらに大きな利潤を得るようにもなっていきます。そういう状態になると「経済」それ自体に価値があるようにも見えてきます。
しかし、そうしたことをしていると、人間の原初的な喜びをどうしても見失ってしまうのです。不幸になります。ですからそういう強烈な「貨幣に対する欲望」は集団でコントロールして、むやみに経済的なものばかりに人々の関心が行ってしまうことのないようにしなければならないのです。小峰隆夫氏の文章の中に
かつて小宮隆太郎氏(東大名誉教授)は、「これ以上成長しないでいいという人は、自分の所得を喜捨してからそういうことを言ってほしい」と書いた(と記憶している。40年くらい前のことなので出典は分からない)。全くその通りだと思う。
という一節がありますが、本当は、貨幣に対する欲望がそれほど強いものであるからこそ、公共的にその欲望をコントロールしなければならないのです。そうでなければみんなが「お金のこと」や「経済のこと」ばかり考えるようになってしまうからです。「お金のこと」ばかり考えている人々は人間本来の喜びを感じることができませんし、協力し合うことも難しいからです。ですから国家の政策の最優先事項が「経済成長」だ、というのは論外と言わなければなりません。
もう少し人間本来の喜びについて考える必要があると思います。「経済成長」は「技術革新」によって、より効率的、大規模に自然を開発(搾取)することができるようになることで進展してきたわけですが、そうした技術によって支えられた生活はそれほど人間にとって喜ばしいものではありません。というのは人間はそのもって生まれた力を十全に発揮することで喜びを感じるという面もあるからです。技術によって支えられた生活は、人間を惰弱にしてきました。体が極端に弱くなりました。アレルギーのような妙な病気が蔓延するようになりました。子供たちは学ぶ意欲を失い、言語能力は低下しています。生活水準が向上しても、人間がダメになっては本末転倒ではないでしょうか。
今の日本人があまり幸福でないのは、豊か過ぎるからでもあるでしょう。技術が人間の生得的な能力を代替してしまい、人間の方はすっかり力が萎えて、することがなくなった挙句、テレビ、パチンコ、ディズニーランド等々で受動的な享楽に浸る、というような状況をさらに推し進めることが健全とは思われないのです。
そういうふうに考えると、やはり「経済」とは「ほどほど」でなければならないのです。「経済成長」という考え方の根本的に問題なのは、そこには際限がないことです。しかし「経済」は結局のところ私たちの「必要」を満たすためのもので、「必要」とはつまるところ「胃袋」のことなのですから、際限のない成長を求めるというのはやはりどうあっても奇妙なことと言わなければなりません。
経済は人間の必要を満たすという、その限りでのみ意義を持つもので、多様な人間活動のうちのごく一部分にすぎないと考えるべきだと思いますし、それは政治や教育や芸術に優先するものではありません。現在の日本はあまりに経済「だけ」が突出しており(それはどれだけ人間本来の「必要」からかけ離れた消費がなされているかを見ればわかります)、いかにもアンバランスなので、経済規模はもっと縮小した方がよいと思います。
(非常に長々しくなり申し訳ありません)