NHK「八重の桜」は会津の悲劇性を強調し過ぎているか?

Posted by fukutyonzoku on 27.2013 歴史 0 comments 0 trackback
幕末維新全殉難者名鑑によれば、戊辰戦争における旧幕府軍の死者は8625名、新政府軍3588名(これは靖国神社に招魂した数)。それ以外にも1359名の戦死者がおり、計1万3562名。うち、会津藩は3107人で、藩別では最大の犠牲者数。全体の戦死者をもう少し少なく見積もっている、教科書等にも載っている資料だと、戊辰戦争の犠牲者数は全体で8420人(新政府側3550人、旧幕府側4690人)。このうち薩摩藩514人、長州藩427人、会津藩2557人(女性194人を含む)。会津藩の戦死者が最多であることに変わりはない。
また、戊辰戦争の中で双方合わせた戦死者が最も多かったのも会津戦争。ちなみに越後長岡藩を中心とする北越戦争も激戦だったが、戦死者は最大級に見ても双方各1000人余り(新政府軍の被害としては最大だった可能性あり)、鳥羽・伏見の戦いでの戦死者は双方で390人に過ぎない。
函館戦争の戦死者は、ウィキペディアによると、幕府軍約1000、新政府軍約300の計約1300人。最後の激戦には違いないが、戦死者は会津戦争より少ない。旧幕府軍は当時、アジア進出で出遅れていたプロイセンに北海道を割譲し、自らは傀儡政権を樹立して旧幕勢力の生き残りを図ろうとまでしたが、普仏戦争直前で余裕がなかったプロイセンにも断られ、命運尽きた。

もし会津が勝っていたら?

歴史にイフはないが、もし仮に旧幕側が欧州列強の支援を得て勝ったとしても、北海道が明治の日本帝国から切り離されていただけだから、大勢に影響はなかったはず。しかし、会津戦争でもし会津が勝っていたら、その後の日本の運命は大きく変わっていたはずだ

旧幕府軍の中で最も善戦した越後長岡藩の河井継之助がやったようにのように 、羽越列藩同盟全体の軍事改革がもう少し早く、さらにフランスではなくプロイセンの支援を受けられていれば、日本は英国を後ろ盾とする西日本とプロイセンを後ろ盾とする東日本に分割統治されていたかもしれず、その後の日本の運命は全く違ったものになつていたはず。戦死者数だけでなく、そう考えれば会津戦争がやはり戊辰戦争のクライマックスだったと言えると思う。
また、白虎隊は総勢343名のうち戦死者は、飯盛山で自刃した有名な士中二番隊19名を含めて計31名。ちなみに、お隣の二本松藩の二本松少年隊は41名中14名。いずれも数はそれほど多くはないかもしれない。ただし、そもそも太平洋戦争を除いて日本の歴史上、これほど子女が犠牲になった戦争は壇ノ浦の源平合戦による平家滅亡ぐらいしかないのではないか。それを考えると、もちろん悲劇に違いない。

悲劇だが失政は失政

しかし「会津の悲劇」をことさら美化したり、悲劇性を強調するのは間違っているだろう。松平容保も会津藩の家老たちも、全体として時代遅れで情報収集力や時代の先を読む先見性がなかった。将軍家の名門という血筋が災いした。会津藩に限らないが、藩士はもともと外からやってきた支配層で、特に松平容保が京都守護職を受けてしまってからは財政難となり、どこよりも年貢の取り立てが厳しかったため、藩を恨んでいた農民も多かった。会津戦争が終わってから藩内の各地で一揆が起こったりもした。
「会津の悲劇」は会津藩の失政の結果でもあることは間違いなく、「犠牲者」の多くは厳しい身分制度の上に胡座をかいた既得権者であった藩士とその家族であり、あえて厳しい言い方をすれば「自業自得」の面もあるのは確かだ。

「什の掟」は復活させるべき地域の伝統?

「ならぬものはならぬ」「年長者に逆らってはならぬ」等で有名な「什の掟」は、要は藩命への絶対服従の誓いであり、封建社会の秩序維持や身分制度の基盤を強化するための洗脳でもある。余談だが、会津の小学校では最近、現代版に改良した「什の掟」を復活させ教えているが、私はもちろん反対だ。封建時代の古い因習まで「郷土の文化」として美化すべきではないだろう。
ただし、明治維新後の日本史は薩長中心の歴史観に偏っていたのもまた事実。司馬遼太郎が敗者や歴史の狭間に埋れていた脇役にもスポットを当て、日本人の歴史観のバランスを図ることに成功した意味は小さくない(成功し過ぎたきらいもあるが)。会津人がその悲劇性を大袈裟に強調したとしても、それほど罪はないと思うのだが…。
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