「一撃講和」にみる昭和天皇の戦争責任

Posted by fukutyonzoku on 12.2015 歴史 12 comments 0 trackback
NHKスペシャル「特攻~なぜ拡大したのか~」をみた。
番組では、新たに発掘した資料や関係者の録音テープなどから、軍部の意志決定プロセスを追うとともに、最前線の現場で特攻作戦に関わった兵士たちの証言を集め、特攻が歯止めなく拡大していった真相に迫る力の入った歴史検証報道だ。
軍部や、それを政府と並列させた明治憲法下の統治システム、新聞の責任等は言うに及ばずだが、改めて昭和天皇の戦争責任を考えさせられた。



番組冒頭で、取材班が掘り起こした陸海軍参謀本部の機密資料。特攻は、架空に架空を積み重ねて、どんどん現実と遊離したものになっていき、続けること自体が自己目的化していく。特攻を終戦に向けての政治工作に利用しようとする軍首脳の思惑も。
作戦立案にかかわった軍幹部らの戦後の証言。「特攻で最後の一撃を加えれば、終戦に持っていく動機がつかめる」「これが最後の作戦。これで一撃を与えれば、米国から妥協を引き出せすためのテーブルにつくことができる。無条件ではなしに」。いわゆる「一撃講和」の考え方だ。

昭和天皇の激励

昭和19年10月20日。フィリピン・レイテ島に米軍が上陸。海軍にはもはや、これを迎え撃つ戦力は残されていなかった。そこで立案されたのが特攻。6機の零戦が空母5隻に命中。うち1隻が撃沈。隊員たちの命と引き換えにあげた予想を上回る大戦果だった。これを機に、特攻が拡大していく。新聞も特攻隊の活躍を賛美した。
海軍の特攻の戦果に衝撃を受けた陸軍。当時の陸軍航空参謀、田中耕二中佐は「海軍は敵母艦を沈めるなど華々しい戦果を上げているのに、陸軍は行ったらすぐに地上でやられている。一体何をやってるんだと毎日叱られるので、私は毎日針のムシロの上にいるような思いだった」と戦後に証言。海軍の最初の特攻から10日後、陸軍も78機の特攻隊を編成する。
昭和天皇も「体当たり機は大変よくやって立派な成果を収め、身命を国家に捧げて、よくもやってくれた」と陸海軍に激励の言葉を送った。戦意高揚のためラジオや新聞にも特攻隊員の肉声が盛んに取り上げられた。

過大報告された特攻の戦果

フィリピン沖で陸海軍は500機以上の特攻機を投入。その戦果について、日本側資料では敵艦232隻を撃沈・撃破と記録されている。ところが米国側資料では、日本軍の特攻による被害は58隻とされている。
フィリピンでの特攻に参加した陸軍特攻隊員の木下顕吾さんの証言によれば、上司に偽りの戦果報告をしたことがあると証言する。一緒に出撃した同期の村岡義人さんの特攻機が急降下を始め、ほどなく暗がりの海面で火の玉がみえたが、何に突っ込んだのか確認できず、敵艦も発見できなかった。ただ上司には「村岡は敵輸送船らしきものに激突」と報告したという。木下さんは「海に突っ込んだなんて、よう言わん。上司にはそうとしか言えなかった。正しいとは思わないが、僕の思いやり」と言葉を詰まらせた。
特攻隊の戦果は、軍上層部によって誇張されることもあったという。村岡さんの戦死10日後に出撃した「八紘隊」。出撃機数は10機。敵艦船2隻に命中という報告に対し、参謀は「10艦を撃破」と記録した。
元陸軍航空隊将校の生田惇さんは、特攻隊の戦果が過大に膨らむのには理由があると語る。特攻を部下に命ずることへの自責の念が働いているというのだ。「上司は部下はよくやってくれたと思いたいので大体が過大報告になる。遺族にも『息子さんはよくやってくれた』と言いたいしね」

天皇が支持した「一撃講和」

米軍の本土上陸が確実となる戦況のなか、軍や政府首脳のなかで、戦争遂行はもはや不可能との認識が広がり始める。講和の道を探るか、徹底抗戦か。日本は戦争継続の道を選び、陸海軍は合同で沖縄戦に向けた作戦方針をまとめた。その中心に据えられたのが特攻。もはや、まともに戦える戦力は残っていなかったのだ。
作戦の立案を行った陸軍作戦部長だった宮崎周一中将は、後に「ここでひと叩きできれば、終戦に持って行く動機がつかめる」と狙いを語った。いわゆる「一撃講和」という考え方だ。
古川隆久・日大教授(近代日本政治史)は「日本国家のメンツがあったと思う。建て前上、負けたことのない国が初めて負ける時に全面降参では、全てを失ってしまうかもしれない。無策のまま降伏となれば、自分たちが崩壊してしまうということを一番恐れていたと思う」と解説する。軍内部の主戦派を抑えるためにも、日本は一撃講和に傾いていく。
一撃講和は、昭和天皇も支持していた。昭和20年2月14日、近衛文麿元首相が宮中に参内し、昭和天皇に「最悪なる事態は遺憾ながらもはや必至なりと存ぜらる。一日も速やかに戦争終結の方途を構ずべきものなりと確信する」と言上。それに対し、昭和天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないと、なかなか話は難しいと思う」と述べたという。
つまり、もし天皇がもはや勝ち目がないことが明らかだったこの時点で降伏を決断していれば、沖縄戦や本土空襲、広島・長崎への原爆投下の悲劇は避けられていた可能性があるのだ。もちろんそうなれば軍部によるクーデターが発生していたかもしれないし、米国がすぐにそれを受け入れたかどうかもわからないが(無条件降伏なら受け得れざるを得ないのだが)。

9割近くが訓練不足の特攻隊員

同年4月、米軍が沖縄上陸。特攻機が九州や台湾から次々と出撃したが、この時の特攻隊員の多くは実戦経験がなく、訓練も不十分だった。沖縄戦直前に海軍が記した特攻機全搭乗員の技量調査書。全搭乗員の技量を経験豊富なAランクから、訓練期間3カ月未満で実戦に出してはいけないDランクに分類しているが、Dランクが全体の4割。しかも、この分類基準は、搭乗員の技量低下を覆い隠すために前年に改定された緩い基準に基づくもので、改定前の基準ではDランクは訓練期間9カ月未満だった。旧基準に照らせば、全体の9割近くがDランクになる という。

ベニヤ板の特攻ボートや無機銃の練習機まで

また、沖縄戦に向けて日本軍は様々な「特攻兵器」を開発。小型ボートの先端に爆弾を設置した特攻艇「震洋」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を少し浴びただけで沈没した。1.2㌧の大型爆弾に翼と操縦席とロケット噴射エンジンを取り付けた人間爆弾「桜花(おうか)」。輸送機の腹下にぶら下げられ、敵艦の上空で切り離され、グライダー滑空をした後、ロケットエンジンを噴射し、敵艦に突っ込む。しかし、この頃には米軍のレーダーや艦艇からの対空砲火の精度が上がっていた。一方の桜花輸送機は、桜花の重さで機動力が削がれたことも重なって対空砲火の餌食となり、殆どが敵艦の上空に辿り着く前に撃ち落とされたという。

本来あり得ない練習機による特攻命令まで出た。布張りの複葉機で、機銃もなく、最高速度は米軍機の4分の1。爆弾を積めば、1500㍍滑走路を離陸するのがやっとだった。沖縄戦が終わるまで特攻出撃した練習機は120機以上。爆弾の重りに機体が耐えきれず、敵艦に辿り着く前に不時着する機体が相次いだが、軍幹部は「特攻精神に欠ける」とこれを非難。不時着で逃げられないよう操縦士をロープで操縦席に縛り付けて送り出すことまでしたという。もはや、まともな「作戦」とは言えない。
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▶ Comment

一撃講話なの?「一撃講和」じゃねぇ?
さんざんぱら、若者を特攻させたあと、
なにを米軍に講話するんだい?

サンフランシスコ講話条約は×で、「サンフランシスコ講和条約」は○;
(第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるために
サンフランシスコで調印された 日本と連合諸国との
講和条約(『日本国との平和条約』)のこと)
2016.05.17 11:09 | URL | carmen #JyN/eAqk [edit]
ご指摘、ありがとうございます。訂正しておきます。
2016.05.18 03:19 | URL | 窓際記者 #- [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2016.05.21 21:30 | | # [edit]
同感です。ところで、carmenさんはペンネームなのだから、このコメントは非公開にする必要はないのでは?
2016.05.21 23:23 | URL | 窓際記者 #- [edit]
冒頭の出撃写真については、すでに御存じかと思いますが・・・

1945年4月12日、薩摩半島南部の知覧陸軍飛行場より出撃してゆく特攻機です。陸軍特別攻撃隊第20振武隊の一式戦闘機三型甲「隼」戦闘機(穴沢利夫少尉搭乗)であります。

そして、それを見送る(当時の)知覧町立高等女学校(現鹿児島県立『薩南工業高等学校』の前身)の「なでしこ隊」の女学生達の姿があります。彼女たちが手にする、まだ咲ききらぬ桜の一枝に不覚にも涙します。
2016.05.22 12:01 | URL | carmen #JyN/eAqk [edit]
昭和天皇実録」なる本を読む上での注意点は、この本は、あくまでも「天皇に戦争責任はない。よって『退位』などということについても、天皇は考えたことすらない」という嘘の立場をとっていることです。これは明らかに間違った編纂内容であることに読者は気がつかなければなりません。

その証拠に「木戸幸一日記」(下巻)では、その立場を否定する記述が確認できます。さらにまた、昭和17年12月12日、伊勢神宮へ戦勝祈願に行き、その外宮と内宮とで奏した「御告文(オツゲブミ)」の文章内容が「実録」にありますが、そこからは、「速やかなる敵の平伏が第一義であり、それを為し得た後での平和招来の祈願」という誓願内容しか読み取れません。この本は立脚点と食い違いの多い、矛盾に満ちた「雑」な本であります。

※御告文(オツゲブミ)・・・天皇が、祭事で皇祖皇宗などの「神」に奏上する文章のこと

2016.06.04 17:55 | URL | Carmen #JyN/eAqk [edit]
特攻に対する「昭和天皇の激励」の言葉は、間違いなく「本文中の発言」通りである。
それに少し加筆したい。周知のように戦争末期、陸海全軍は無策なる特攻の様相を呈するようになる。
その時期、及川古志郎軍令部総長は、当然の事ながら特攻の戦果を天皇に上奏する。
その時、裕仁は「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」
と言っている。この事は及川が、当時前線の各基地に打電させたことから広く世に知られている。
しかしこの時の裕仁の言葉には、注意しなければならないことがある。
前段の発言と後段の台詞では、意図している内容が全く違うことである。
と同時に、穿った見方をすれば、前段発言は「天皇」という立場から発したものであり、
後段は「大元帥」という職責に立脚した立場からの台詞だということに気がつかなければならない。
このように、裕仁は確信犯的に、その場その場で「立場の使い分け」を意識し、そして意図的発言をしている。
(この事は「昭和天皇実録」を読めばよく分かる)
「しかしよくやった。」と言葉をかけられた当の忠良なる軍人たちは、
さらに不惜身命、一層奮励努力せざるをえなくなる。裕仁は罪作りな死神だ。
裕仁にどのような弁護的理屈をつけようとも、結果的に数多の民草を死に追いやった厳然たる事実があり、しかもその責任の何割かは、彼にとりきわめて重いことも明白である。
裕仁が正常な神経の持ち主ならば、大日本帝国崩壊とともに精神に異常をきたすか、自死を選択していただろう。
しかしながら、彼は例の「アッ、そう」の口癖と共に、62年と2週間の最長在位年数を駆け抜け、天寿を全うした。

2016.07.31 00:27 | URL | Carmen #JyN/eAqk [edit]
「昭和天皇の激励」の本文中に変換間違いがありました。
訂正をお願いします。
3行目:衆知のように→周知のように
2016.07.31 20:22 | URL | Carmen #- [edit]
書架の「軍旗はためく下に」《 (中央文庫BIBLIO) 文庫 – 2006/7/25・結城 昌治 (著)》が私に訴えかけてくる。

「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」(「戦陣訓」)の一文から始まる「敵前逃亡・奔敵」、「従軍免脱」、「司令官逃避」、「敵前党与逃亡」、「上官殺害」の5つの話は、全て「陸軍刑法に基づいて処断された兵士」たちの話であり、複数の元軍人達の証言という形で語られている。陸軍刑法とやらの軍律により不条理な死を強要された兵士達の語である。また第63回(昭和45年度上半期) 直木賞受賞作品でもある。

これは1972年には映画化された。そして戦争映画では名作中の名作とされるものだが、惜しいかな、この日本国内では、「菊の御威光」を忖度してかDVD化は本格化されてはいない。「上官殺害」をメインにしたこの映画の完全DVD化が待たれる。軍隊とは所詮「非人間的、巨大な暴力組織」であり、ヤクザの大組織・黒社会となんら変わらない。その事を今は亡き多くの名優たちが見事に演じきってくれた。感謝したい。

真珠湾に行くと言う、戦力大好きな某国の首相は、自分の身内が非難されているからか、この映画はおそらく見てもいないのだろうな。布哇に停泊する戦艦ミズーリに、昭和20年4月11日、沖縄沖にて見事体当たり攻撃を成功させた零式艦上戦闘機があった事も、完全に欠落しているのだろうな。悲しいことだ。


太字の文
2016.12.26 14:20 | URL | carmen #JyN/eAqk [edit]
(故)渡辺清の名著『戦艦武蔵の最期』に描かれた日本海軍の戦艦の上甲板
≪抜粋≫

「砕かれた頭蓋骨、どろどろの脳液、吹っとんだ首、縄のようにもつれた腹わた、ちぎれた手足、そして床一面の血だ。血は折り重なった死骸の下をあらいながら、入り口のへしゃげた防水扉の隙間から通路がわへぴたぴたと流れ出た。天井やまわりの壁もはねた血でずっくり濡れ、ところどころ肉片が平たくはりついていて、そこからも血の滴りが雨だれのように垂れていた。」(160-161頁)
「・・・少し先へいくと、応急員のマークをつけた、まだいかにも子供っぽい面長の少年兵が、何かぶよぶよしたものを引きずりながら、横向きになってもがいていた。
歯をくいしばって振っている顔は、すでに死相をうかせて土色だった。
見ると、腹わたをひきずっているのだった。
腹わたは血につかって彼の足元にもつれた縄のようにひろがっていた。
うす桃色の、妙に水っぽいてらてらした色だった。
少年兵は途方にくれながら、わなわなふるえる両手でそれをかきよせ、もう一度それをさけた下腹の中へ一生懸命押しこめようとしていたのだ。そうすれば、またもと通りになると思ってでもいるように・・・・・・。」(197頁)
渡辺清『戦艦武蔵の最期』朝日新聞社(1982年)
自ら進んで海軍に入隊した渡辺は、戦艦武蔵に乗船し、1944年にレイテ沖海戦を体験することになった。レイテ沖海戦とは、フィリピンに上陸した連合国軍を迎撃するため、日本海軍がおこなった勝算の少ない殴りこみ作戦(捷一号作戦)で生じた戦闘のことであり、ここで不沈艦といわれた戦艦武蔵は多数の魚雷・爆弾を受け沈没した。渡辺は、『戦艦武蔵の最期』で、凄惨を極めた武蔵の艦上の様子を、体験者でなければ書くことはできないリアリティーでもって描いている。
こうした記述をとおして渡辺が伝えようとしているのは、
「その死は一様に醜く無残だった」(205頁)ということである。
戦場における死は「『勇ましい』ものでもなかった。
『立派なもの』でもなかった。
『美しい』ものでもなかった。
みんな踏みつぶされたボロ布か虫けらのように死んでいった」のであり、「おれはそれをこの眼で見たのだ」(同)。渡辺は、「一様に醜く無残だった死」を、「ここで、こんなふうに死んでいかなければならないくやしさを、哀しさを、そして空しさ」(266頁)を人々に伝えなければならないと思うようになる。死んでいった者の悲痛な叫びを、誰かがかわって伝えなければならない、それこそが残された者の義務なのだ。
そこで書かれたのが『戦艦武蔵の最期』だったのである。
かれらが利害を持たない他人や他の民族の人々に冷淡・残虐であった事実(ときに父母兄弟にさえそうであったろう)は勿論、<一様に醜く無残だった死>も、<ここで、こんなふうに死んでいかなければならないくやしさ、哀しさ、そして空しさ>も存在しない。
靖国神社は、『戦艦武蔵の最期』で描かれたこうしたリアリティーを排除したうえに成り立っているのである。
、、、だから、きっとそうするだろうと思った。
それでこそ「我らの大元帥」だと思った。ところが天皇は謝罪一つするでなく、ぬけぬけと居直ってしまった。
「民草」(たみぐさ)も「赤子」(せきし)もただの言葉、結局時の状況に巧妙に同化して己れの転生を計ることだけに窮々としていたんだ。そのために失われた三百万の犠牲も天皇にとっては所詮一条の煙り、脱ぎ捨てた軍服と一緒に忘れてしまえるようなものだったのだ。
そうして当節では、マス・コミの「御輿」(みこし)にのって、「人間味あふれる」だの、「ご生物学者」だの、「慈悲深い父君」だの、「民主的で和やかな天皇家」(このおどろくべき形容矛盾)だのと、週刊誌の口絵を賑わし、正月ともなれば、高みから帽子をふって愛嬌をふりまいたりしている。
まことに恬然たる実に「寛仁大度な御姿」だ。
もっともこのおどろくべき見事な転身は何も天皇に限ったことでなく、それはそのまま日本人の精神構造を「象徴」したものだと思う。とりわけ戦中、おれたちをペテンにかけたおエラ方の多くは口をぬぐつてふたたび政・財・官で幅をきかせ、やれ「所得倍増」だの「高度成長」だの「経済大国指向」だのと物質主義を謳歌し、そのためにことあるごとに天皇を担ぎまわって利用している始末。
むろん彼らのいいなりになって利用される天皇も天皇だが、戦後このかた「たみぐさ」のおおかたも、そういう天皇にそれほどこだわっていないようだ。
こんなことだと、そのうちにこの国に「社会主義天皇制」などというバカげた制度ができるかも知れない。希望は捨てたくないが、楽観できる根拠は乏しい。
何れにしろ、(戦友)鈴木よ、これが「我らの天皇」だったのだ。
天皇の正体だったのだ。
それとは知らずあんな「大真面目」な遺書を本気で書いた俺たちこそ、いいつらの皮だった。
それを思うと、心忸怩として、俺は死んだお前が無念でならぬ。
太字の文
2017.05.08 22:46 | URL | carmen #- [edit]
冒頭の出撃写真については、すでに書かせてもらいましたが・・・

1945年4月12日、薩摩半島南部の知覧陸軍飛行場より出撃してゆく特攻機です。

陸軍特別攻撃隊・第20振武隊の一式戦闘機三型甲「隼」戦闘機(穴沢利夫少尉操縦)であります。

そして、それを見送る(当時の)知覧町立高等女学校(現鹿児島県立『薩南工業高等学校』の前身)のなでしこ隊」の女学生達の姿があります。

そしてその女学生の一人が書いた手記が残っています。

■四月十二日

本島機が後れて目の前を出発線へと行くと隊長機が飛び立つ。

つづいて岡安、柳生、持木機、九七戦は翼を左右に振りながら、

どの機もどの機もにっこり笑った操縦者がちらつと見える。

二○振武の穴澤機が目の前を行きすぎる。

一生懸命お別れのさくら花を振ると、につこり笑つたきり

鉢巻姿の穴澤さんが何回と敬礼なさる。

パチリ…後を振り向くと映画の小父さんが私達をうつして満足している。

特攻機が全部出て行つてしまうとぼんやり飛行機の去つたのも知らぬかの様、

立つて南の空を何時までも見ている自分だつた。

何時か目には涙が溢れ出ていた。

http://www.fujitv.co.jp/m/drama/nadeshiko/column_2.html

(この写真は報道班員が戦意高揚の為撮影しました。)
2017.09.02 13:08 | URL | carmen #JyN/eAqk [edit]
タイトルの「友」とは「戦友」のことです。

部隊で陸軍病院に入院していて、

一人だけ生き残った渥美さんが

戦友の手紙を戦後遺族に届けてまわる映画です。

それはどうしてだったのか

下記のラストのシーンでよくわかります。

ぜひ全編をご覧になってください。

https://www.youtube.com/watch?v=8St7iXZ2TAA
2017.09.07 12:34 | URL | お名前 #JyN/eAqk [edit]

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