戦争体験談はなぜ響かないのか

Posted by fukutyonzoku on 22.2015 政治・経済 0 comments 0 trackback
今まで重く口を閉ざしてきた戦中派が、メディアに戦争体験を語るケースが増えている。今年は戦後70年という節目に当たりメディアの特集が相次いだこと、昨今の政治外交情勢に「きな臭さ」を感じていること、自らの寿命を意識する年齢に達し「遺言」を残しておきたいという思いが高まっていること--などが重なってのことなのだろう。
戦争の実態を様々な立場から語り継ぎ、記録にとどめて後世に引き継いでいくことは、戦争の実相を知り、次世代が歴史を多角的に検証する資料を残す意味でも意義深いことだと思う。しかし、いつも残念に思うのは、体験者たちの口から出てくる結論が大抵「戦争だけは絶対にしてはならない」というお題目にとどまっているケースが殆どであることだ。

◾️絶対してはいけない「戦争」とは?

たとえば、こんな疑問が沸く。絶対にダメと仰る「戦争」とは、どんな戦争を指しているのか。

①国際法上禁じられている(侵略)戦争のことか
②諸外国で行使されている集団的自衛権行使による「他衛」や「海外派兵」を含むのか
③自国防衛を含む全ての武力行使のことか--。

「戦争」の幅によって、メッセージの意味合いは全く違ったものとなる。

◾️対立点は「戦争観」なのか?

「戦争」の定義を特定した上で、それをしないためには何をどうすればよいのか、という政策論も180度違う考え方が存在する。安保法に対する世論が割れているのもこの点にある。戦争をしないためには、「平和憲法」を守り自衛隊を縛り続けるのがよいのか、反対に憲法を改正して自衛隊を国防軍に昇格させ、日米同盟を強化して抑止力を高めるべきなのか--。「戦争をしないため」という目的は同じでも、その処方箋を巡っては正反対の考え方が対立しているのが現在の世論である。対立点は「戦争をしないため」という目的、思い、戦争観ではなく、そのための処方箋なのだ。

苛烈な戦争体験を経て戦中戦後を生き抜き、次世代に教訓を残そうという志の高い先輩諸氏なら、長年考え抜いた結論が各々あるはずだが、そこを明確に語る人は案外少ない。

前の戦争で過酷な全体主義を経験し、多くの都市が空襲で焼け野原となり、世界唯一の被爆国になり、民主主義と奇跡の復興という「平和の配当」を存分に享受した日本人は、戦争への拒絶反応は恐らくどの民族や国民よりも強い。戦争体験の直接的な影響だけでなく、戦後教育やメディア環境の影響からも「戦争=悪」という感覚が理屈抜きに染みついている。従って、上記①の侵略戦争を日本が再び起こすことを心配しているのなら、それは心配のし過ぎというものだ。ヒューマニズムや人権感覚、倫理観は旧世代の日本人より今の日本人の方が遥かに進歩していると思う。自分たちの子孫を少しは信頼すべきだといいたい。

◾️理想と現実の折り合いの付け方

ところが国際社会は、必ずしも平和主義が染み付いた日本人ほどには無条件で戦争を敵視していない。核の抑止力や武力均衡や集団的自衛権行使によって平和が保たれているという考え方がスタンダードだ。戦争は避けたいが、戦争の火種は世界中に転がっているのが冷厳たる現実だからだ。その「野蛮な世界」から日本だけが超絶した存在でありたいと願ったところで、実際にはそんなふうに生きていく術はおそらくない。たとえ鎖国したところで、宇宙かどこかへ国ごと引っ越しできるわけもないので、地政学的リスクからは逃れようがない。残念だが、戦備なしの平和は現状あり得ない。

そうした現実と理想の折り合いの付け方こそが、日本の安保政策の肝と言ってもいい。「平和憲法を守れ」という日本国民は少なくないが、かといって自衛隊の解散や日米同盟の解消を主張する国民も今では皆無だ。つまりは、自衛のための戦力保持や米国との軍事同盟という現実については、大半の国民が大筋で許容しているということだ。
こうした現実を生き抜いていかなければならない私たちにとって、もし「絶対に戦争はいけない」という戦争体験者のメッセージが、自衛戦争まで否定するものなら、いくら戦争が悲惨なものだとしても我々「戦争を知らない子供たち」は受け入れ難いだろう。
これはかつて旧社会党などが主張した非武装中立論と同じだ。憲法9条(戦争放棄と戦力不保持)を最もナイーブに解釈、実行しようとするもので、たとえ侵略されようともガンジーやチベット仏教徒のように武力抵抗せず、国際社会の善意に身を委ねようとするものだ。しかし、もし侵略してくる相手が中国なら、安保理常任理事国である中国自身が拒否権を発動するため、国連は動けない。米国を中心とする有志連合が助けてくれるかもしれないが、これは集団的自衛権の行使であるから、同盟関係が平時から盤石であることが大前提となる。しかも、相手は国力、軍事力ともに世界ナンバー2の中国かもしれないのだ。米国でさえ全面衝突になるのは尻込みするだろう。
「世界には軍隊を持たない国もある」というが、これらは小国ばかりで、米国などの友好国と軍事同盟を締結したり、NATOに加盟したり、「軍」とは呼んでいないだけで準軍隊を持っていたりする。本当の意味で非武装の国など実際にはない。

◾️本当に戦争を放棄したらどうなるか

もし「絶対に戦争をしない」という「戦争」の意味が自衛戦争も含むものであるなら、尖閣諸島や沖縄のみならず日本本土が侵略されても抵抗せずに従うしかなくなる。チベットやウイグルのように中国に支配され、徹底的に弾圧、虐殺されても国際社会は事実上助けてはくれない。ユダヤ人のように国を失い、世界の流浪の民となっても甘んじて受け入れるということだ。「(自衛戦争を含めて)戦争だけは絶対にしてはならない」とは突き詰めればそういうことだ。戦中派の反戦メッセージがもしそうなら、ハッキリとその覚悟を国民に問わねばならないが、そんなことをいう人はいない。

◾️集団的自衛権反対なら単独防衛の覚悟を

もし、個別的自衛権はさすがに認めるが、これまで憲法解釈によって政府が禁じてきた集団的自衛権の行使は罷りならぬというのなら、話はわかる。ただし、その場合は日米同盟が弱体化し、いざという時に米軍は動かない事態を日本は覚悟しなければならない。中国の猛烈な経済成長とそのスピードをも上回る大軍拡、北朝鮮の核保有と弾頭ミサイルの能力増強という脅威の増大に対し、現実に日本が独力で対処するには、国力、財政、技術力、法的な制約をどうクリアしていくかは相当な難題だ。その覚悟も我々に問わねばならない。
「外交で」というのは戯言に過ぎない。外交努力で平和裏の紛争解決を目指すべきなのは当然だが、外交は常に相手のあること。いつもうまくいくとは限らない。交渉が決裂した時の「最後の砦」が武力行使であり、その備えと覚悟がなければ、相手からなめられ、交渉力は減じてしまう。武力と外交力は車の両輪と言われるゆえんだ。

◾️罪深い素朴な平和主義

もしそうではなく、今般の自衛隊の海外派兵等の役割拡大(上記②)に対し、何となくきな臭さを感じているだけだとすれば、心情としては理解する。ただ、「空気」という感覚だけで拒絶反応を示す素朴な平和主義には、子供の無自覚な残酷さと同類の罪深さを感じる。なぜなら、日米同盟の強化や自衛隊の役割拡大の推進派の多くは、日本の安全保障のためにそれが必要だという信念で語り、動いているからだ。つまり「戦争を防ぐため」という思いは反対派と同じなのだ。
そのことは結果的に日本が戦争に巻き込まれる危険を高めるかどうかという議論は、処方箋(政策)の妥当性やメリット、デメリットの比較考量の問題であって、「戦争を防ぐため」という目的についての対立ではない(政権の軍需産業との癒着といった「陰謀論」を言い始めればキリがなくなるが…)。
だとすれば、その信念を疑うような情緒論は、論点を理解しておらずピント外れであるばかりか、感情的な対立を煽る結果にしかならない。

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