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“週刊文春みたいな仕事”は恥ずべきものだ ~週刊誌は安心して退場を

Posted by fukutyonzoku on 01.2018 メディア 0 comments 0 trackback
講談社の「フライデー」や「週刊現代」の編集長を歴任した元木昌彦氏が、プレジデント・オンラインに、「“週刊文春みたいな仕事”は恥ずべきものか ~ 雑誌が消えれば取り返しはつかない」という記事を書いていた。元木氏は週刊現代編集長時代に「ヘアヌード」という言葉を創り積極的に展開、一世を風靡した名物編集者なのだそうだが、正直、週刊誌編集者のジャーナリズムに対する意識の低さに呆れ果てたので、反論しておきたい。

◼︎雑誌メディア全体の存在意義と文春の存在意義は別

「週刊文春」は今回、大物音楽プロデューサー、小室哲哉の不倫をスクープした。小室は文春の報道を受けて記者会見し、クモ膜下出血で倒れてリハビリ中の妻KEIKOさんの介護の孤独や辛さを率直に話し、看護婦との男女関係を否定。さらには音楽プロデュースの仕事から引退すると宣言。予想外の会見内容に、SNSなどで小室への同情が広がり、芸能人の「不倫」を相次いで報じている文春へのバッシングが逆に高まっている。元木氏の記事は、そうした「文春バッシング」や週刊誌バッシングに対する反論を意図したものだ。

まず、芸能人の不倫を飯の種にする週刊誌報道の是非が問われているのに、「雑誌が消えれば取り返しはつかない」と雑誌メディア全体の存在意義に話をすり替えるのは、論点ずらしでしかない。文春というメディア、あるいは週刊誌というメディアがなくなるかどうかは結局、マーケット(購買者)が決めることだ。
一口に「雑誌」といっても、ゴシップやメディア批判、グラビア、裸ならWebサイトにも溢れているので、それだけが売りなら既に存在意義を失っている。政治家のスキャンダルなら、週刊誌がリークの受け皿に選ばれているだけなので、週刊誌がなくなっても受け皿となる夕刊紙やスポーツ紙、テレビ、ネットメディアなどはいくらでもあるだろう。
百歩譲って、仮に「雑誌が消えれば取り返しはつかない」というへ理屈を受け入れたとしても、消滅しないために努力する責任は発行者側にある。「批判するより応援すべきだ」と国民や購読者に責任転嫁するような言い回しは筋違いだ。応援してほしいなら、批判に謙虚に耳を傾ける姿勢を示すのが先だろう。

◼︎ 芸能人は政治家と同じ「公人」?

また、元木氏は「神楽坂の芸者に3本指(月30万円)でオレの愛人になれといったことを週刊誌でバラされ、わずか60日で総理の座から滑り落ちた政治家がいた」例を挙げ、週刊誌は芸能人の不倫だけでなく権力者のスキャンダルもちゃんと追及していると強調している。しかし、これをスクープしたのは、「週刊誌」とは言っても文春などの出版社系雑誌ではなく、新聞社系の「サンデー毎日」である。
この報道の影響もあって総選挙で大敗し、「総理の座から滑り落ちた政治家」は、宇野宗佑元首相である。なお、彼を告発した神楽坂芸者は「週刊朝日」にも同じネタを持ちかけていた。
節操のない出版社系の週刊誌に比べれば、新聞社系の週刊誌は報道倫理が比較的しっかりしている。それをやれば部数が伸びることがわかっていても、出版社系のような芸能人のセックススキャンダルや裸はやらない。
これに対して出版社系週刊誌は、ある時は新聞社系と出版社系を一緒くたにして「権力の腐敗追及もやっている」とジャーナリズムの正義を語り、実は情報の多くを新聞記者への「取材」に頼っているくせに、一方でそのことを隠してながら新聞批判をウリにする。「タブーに斬り込む」と言えば聞こえはいいが、一事が万事、こうした無節操なご都合主義で成り立っているのが出版社系週刊誌だ。

かつて主要メディアの政治部には政治家の下ネタは記事にしないという不文律があったが、「サンデー毎日」のスクープ報道はその政治報道文化を善くも悪くも変えた。ちなみに当時のサンデー毎日編集長は鳥越俊太郎氏だった。
今でもフランスやイタリアなどでは「政治家のセックススキャンダルは記事にしない」「政治家としての能力と下半身の節操は別物」という考え方が根強く、日本でもサンデー毎日の「3本指」報道に対する批判は今でもある。しかし、いずれにしてもターゲットは政治家であり、総理大臣だった。公人中の公人なのだ。

対して、小室哲哉は「公人」か?

「公人」とその対義語である「私人」という言葉は法律用語ではなく、明確な定義はないものの、Web辞書によると、狭義の公人は「公職に就いている者」、広義では「社会的な立場にある者」とある。ただ、「社会的な立場」とはどの職業やどのポストまでを含むのかは曖昧で、明確な定義は存在しない。
広義の公人に関連して「みなし公人」なる概念もあるという。教員や弁護士、実業家、芸能人、芸術家、ジャーナリストまで含まれるらしい。
典型的な「みなし公人」はファーストレディーの安倍昭恵氏だろう。本人は公職に就いているわけではないので、安倍首相は「家内は私人」と国会答弁で言い放ったが、納得した国民は皆無。法的な職権や職責は何もないのだが、非公式には総理大臣並みの影響力を持ち、実際に行政を歪めた疑いが極めて濃いのだから、彼女以上の「みなし公人」は他にはいない。
要するに、「みなし公人」とは「有名人だから」とか、「この職業だから」と単純に線引きできるものではない。例えば公務員でも、たいした職権のない下級職員と立法や政策に影響力を行使できる幹部職員を一律に同じ「みなし公人」と扱うのは不適切だろう。一般人なら報道しないような軽犯罪で「○○省の職員」「○○会社社員」というだけで報道している現状は、おかしいのではないか。

◼︎「公人」にプライバシーはない?

ただし、法的には「総理大臣にもプライバシーや人権はある」との解釈が一般的だ。公共の利益(公益)に関わる可能性があることについてはプライバシーではないとの考え方が一般的なので、総理大臣のプライバシーの範囲は自ずと限定されてくる。とはいえ、例えば食事の好みや性癖、趣味などは、本人の健康や政治的資質が疑われるほど異常なものでない限りはプライバシーと言えるだろう。ましてや、それ以外の公人やみなし公人のプライバシーの範囲はさらに広いはずだ。

いずれにしても、「公人」のプライバシーや人権が制限されるケースは、公益に関わるかどうかの一点に尽きると言っていい。

◼︎小室の不倫は公益?

たとえば、米ハリウッドでは、大物プロデューサーらの長年にわたるセクハラ行為が次々と暴露され、「#Me_Too」騒動として世界中の政界、経済界、スポーツ界、メディア業界に広がりをみせている。性的暴行やセクハラ行為は権力を利用した犯罪であり、実際に警察も動いている。ハリウッドの件だけでも被害の広がりをみれば、単なる属人的なセックススキャンダルではなく、米エンタメ業界全体の体質や女性の人権に広く関わる問題だ。ニューヨークタイムズがスクープしたのは、そうした公益性を判断してのことだろう。

小室哲哉も有名な超大物プロデューサーなので、広義の公人と言えるかもしれない。しかし、彼の看護婦との不倫は公益にいったいどう関わると言うのだろうか。

不倫するような奴が作った音楽は社会の風紀を乱す、とか?

それとも、若者のカリスマだから青少年の倫理観に与える影響は無視できない、とか?

バカバカしい。ヘアヌードまで載せて稼ぎながら、社会の風紀や青少年への倫理的影響を問う資格が出版社にあるとは到底思えない。もし青少年の倫理観に悪影響を与えているとすれば、その原因をつくっているのは、毎週のように大人の不倫を世間に晒している週刊誌やテレビ自身にある。

別の理屈があるなら聞いてみたいものだ。

相手の看護婦はシングルマザーだと伝えられているので、被害者と言える可能性があるのは小室の妻KEIKOさんだけだろう。しかも、不倫は刑罰に処せられる「犯罪」ではない。小室とKEIKOさん2人だけの民事上の問題だ。つまり100%プライベートな問題と言え、#Me_Too問題とは根本的に違う。

◼︎公益無視が「ジャーナリズム」?

元木氏は「権力者のスキャンダルも芸能人の不倫も、週刊誌にとっちゃ貴賤の別はない。判断基準は面白いかどうかだけだ」と書いている。「貴賤の別」という表現が的外れなのは置いておくとしても、つまり彼は週刊誌は面白ければよい、売れればよい、公益などどうでもよい、と白状している。そう開き直りながらも、一方で週刊誌を「雑誌ジャーナリズム」と定義し、その社会的な存在意義を主張している。公益を無視するジャーナリズムが果たして「ジャーナリズム」の名に値するのだろうか。ダブルスタンダードとしか言いようがない。

元木氏は「自分を世間に常に露出することでその存在が成り立つ人は公人」とも書いているが、根拠は不明だ。どれほど有名人であろうと、たとえば北野武などのように世評や主義主張を日頃よく語り、発言が政治や社会に一定の影響力を持っているようなタレントでもない限り、そのプライバシーが公益に関わることが実際あるのだろうか。北野でさえ女性関係は公益とは無関係だろう。むしろ、公務や公益とは無関係の「公人」のプライバシーを暴くことでその人の仕事を奪い、才能を葬り去ることになれば、むしろそうした報道こそが公益に反しているのではないか。
元木氏は「才能を不倫報道などでつぶしていいのか、という批判もあるようだが、それでつぶれるような才能はそれまでのこと」と言う。これはスキャンダルメディアの常套句だが、子供じみた言い訳に過ぎない。酒席で貴ノ岩を暴行した日馬富士が「あの程度の『かわいがり』で潰れるようなら、その程度の力士だということ」と言い訳するようなものだ。

◼︎報道の自由を貪り、法的不備につけ込み儲ける週刊誌メディア

有名人はすべて「公人」であり、プライバシーはない、という単純な決めつけは、イエローメディアのご都合主義的なルールに過ぎない。必ずしも法的、社会的に共有されているルールではない。事実、週刊誌は名誉毀損で訴えられ、結構敗訴している。
それでも裁判所が認定する慰謝料はせいぜい数百万円程度なので、大手出版社にとっては痛くも痒くもない。仮に訴えられて敗訴し、慰謝料を支払ったとしても、際どいネタで雑誌が売れれば十分にお釣りがくるからだ。つまり、有名人のスキャンダルやプライバシーは金になるので、ビジネスとしてやっているだけなのだ。
元木氏も「不倫取材の一部始終を写真や動画のパッケージにして、ワイドショーに買わせるというビジネスが、文春の大きな収入源になってきている」と説明しているように。「雑誌ジャーナリズムとは」といった大上段の理屈は、所詮後付けの屁理屈に過ぎない。

逆に言えば、有名人のプライバシーが守られないのは、こうしたビジネス上の利益の大きさに対して、裁判所が認定する名誉毀損などの慰謝料の相場が低過ぎるためとも言える。プライバシーを暴かれた有名人も報道が大筋で事実なら仕方ないと大抵は諦める。裁判で闘っても週刊誌に余計に叩かれ続けるだけだし、事実関係が概ね間違っていなければ裁判では負ける可能性が高い。裁判では、事実認定や「事実と信じるに足る状況証拠」が十分かどうかといった点だけが争点になるケースが多く、そもそもプライバシーより優先される「公益」が存在するかどうか、という肝心な点がスルーされているケースが多いように見える。このため、事実関係が大筋で間違ってさえいなければ、週刊誌側が勝訴するケースが多い。この司法判断の傾向は、「報道の自由」寄りで、書かれる側の人権・名誉・プライバシーの保護を軽く見る時代遅れの感覚ではないかと感じることが多い。もし有名人側が勝ったとしても、取れる慰謝料は微々たるものなので、相手の出版社に打撃を与えることもできない。

これは法律の不備と言ってよい。

◼︎国民には公益と無関係のプライバシーを「知る権利」などない

「そんなことを言っても、実際売れてるじゃないか」「売れるということはニーズがあるということで、すなわち国民の知る権利に答えている」と開き直る雑誌人もいそうだが、これは倒錯した論理だ。確かに人間には覗き見趣味や願望は多かれ少なかれ誰にでもある。しかし、公益とは無関係の他人のプライバシーを知る権利など国民にはないし、それを暴く責務も自由もメディアにはないからだ。

一般論としてメディアは多様性があった方がいいし、多様なメディアが存在していることが国民の知る権利に応え、民主主義社会の土台となる。しかし、一方で真偽不明の怪しい情報やプライバシー・人権を踏みにじる報道が氾濫することは、報道の自由そのものの価値と報道機関に対する国民の信頼とを毀損し、民主主義の土台を脅かすリスクがある。週刊誌メディアはその罪に対して無自覚か、意図的に無視している。自らの商法を否定することになるからだ。そして、ポピュリズム(大衆迎合)が絶対的な真理だと信じ込もうとしている。それは自分たちが飯の種にしているスキャンダリズムを正当化するための歪んだ論理に過ぎない。

◼︎学生との議論から逃げた「元教員」

元木氏は以前、大学で「編集」を教えていたそうで、必ず何人かの学生から「フライデーはプライバシー侵害をしている」「人権侵害もあるのではないか」「恥ずかしくないのか、フライデーみたいな雑誌をやっていて」と質問され、こう答えていた、と書いている。

そういう批判がよくある。いくらでも反論できるが、そう考えている学生は、今すぐにここを出て行って、絶対、出版社を受けようなどと考えるな

学生の質問や疑問に正面から答えようともせず、自分たちの「掟」を問答無用で押し付け、従わない奴は出て行け、出版社にも来るな、と。これは議論ではなく脅迫である。そもそも、こんな恥ずかしい振る舞いを自慢げに書く神経がどうかしていると思うが、こんな教員に教えられる学生たちも可哀想である。

さらには、こんなことも書いている。
『ジャーナリズムとしてのパパラッチ』(内田洋子著/光文社新書)の中で、イタリアの名編集者、グイド・カルレットはこういっている。「報道の自由とプライバシー保護のどちらかを選べ、と言われて、倫理観に縛られて<プライバシーの保護>を選んでしまうようでは、マスコミで働く意味はない」”

このパパラッチ編集者が本当に「名編集者」なのかどうかはともかく、こんな極端な二択を迫って「報道の自由」側に立つのだ、と粋がってみせても、プライバシーを無視することの免罪符にはならない。「迷ったら書け」という現場哲学は分かるが、あなた方の根本的な問題は「そもそも真摯に迷っていない」ことにあるのだ。

◼︎日本で一番プライバシーを考えているのは週刊誌?

日本で一番プライバシーについて考えているのは、週刊誌の編集者たちであることは間違いない」と何の根拠もない断言をしているが、私に言わせれば、それはビジネス上のリスク管理という当たり前のことをしているだけのことだ。「編集長は場合によって顧問弁護士の意見も聞く」とも書いているが、裁判になった場合の見通しと敗訴した場合の慰謝料を気にしているだけのことだろう。つまりは、ビジネスとしてプラスかマイナスかを考えているだけであり、それは自慢するような話ではなく、商業メディアなら当たり前のことだ、と突っ込みたくなる。新聞社はもちろん一般企業にも法務部や法務室があり、顧問弁護士が常駐しているのは常識だ。残念ながら、ジャーナリズム倫理やターゲットの人権を真剣に「考えている」ようにはとても思えない。

国民の知る権利に体を張って応えている雑誌がなくなれば、情報も雑誌とともに消えてしまう」と元木氏は言う。文春を含む週刊誌メディアの殆どが「国民の知る権利に体を張っている」とはもても思えない。むしろ、国民の知る権利を拡大解釈し、権利の基盤を危うくしているのではないか。「情報も雑誌とともに消えてしまう」というが、週刊誌が消えたところで公益にとって真に重要な情報が消えることはないだろう。どうぞ安心して消えてください、と言いたい。
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